ボンベイのサファイヤについて。【その1 ジン編】
さあさあ今日は前回のお約束どおり、私の大好きなジン、「ボンベイ・サファイヤ」についてのお話である。
しかしながら。
ボンベイ・サファイヤのことを知るためには、まずはジンのことを知る必要がある。
あー、そこのあなた、そこから始めるのかい、とか言わない言わない。
だって、改めて「ジンとは何ぞや」と問われると、ほら、ちょっと困るではないですか。ね?
ほらほら、古より「将を射んと欲すればまず馬を射よ」って言うじゃありませんか。
意味不明で強引ではありますが(一応自覚あり)、ま、いつものことなのでご寛恕くださいまし。
ジンの歴史は、古く12世紀、腺ペストが大流行した時期にオランダの僧たちによって作られた薬用酒に始まるという。
1660年、オランダのライデン大学の医学部教授、フランシスクス・シルヴィウスはこれを改良しジュニエーヴル(Gehever)と名づけ、当時オランダの植民地であった東インド地域で働く人々のための解熱・利尿用薬用酒として製造、販売を始めた。
その製法は利尿作用のあるジュニパー・ベリー(杜松の実)を純粋アルコールに浸漬、蒸留するというものであった。
因みに製品名のGeheverとは、原材料の杜松の実のフランス語である。
最初はあくまで薬局で薬用として販売されたのだが、このジュニエーヴル(オランダではイェネーフル(Genever)イェネファー(Geneva)と呼ばれる)、純粋に酒としてもなかなか美味だったのでたちまち巷の酒飲みに愛飲されるようになったという。
(ここらへん、本邦の「薬用養○酒」なんかとはえらい違げほんげほん)
このようにして16世紀末にはジュニエーヴルはオランダではひっぱりだこの人気酒となっていたのだが、これに目をつけたのがオランダ駐在の英国兵士である。
いずれも酒飲みの彼らは、この酒を「オランダの勇気」と名づけて母国に持ち帰った。
「ジン」と名を変えたこのスピリッツは勿論イギリスでも大人気となったという。
その流れにさらに拍車をかけたのが、かの名誉革命→オレンジ(オラニエ)公ウィリアム(ウィレム)3世の即位である。
彼は英国王の地位を継承して間も無く、フランスから輸入するワインやブランデーの関税を大幅に引き上げ、さらにジンを国内に普及させることに一役買ったそうである。
ほほう、確かに確かに。
彼の一生はフランス(ルイ14世)との確執に明け暮れたようなものでしたからなあ。
…しかしまあこの措置の目的はそれだけではなく(まあ多少はありましたでしょうが)、
真の目的(或いは、彼が真の目的と見せかけた目的)は、国内のグレーン・ウイスキー(国産スピリッツ)生産の保護であった。
スピリッツの製造・販売を保護すれば国産スピリットの売り上げはぐんぐん伸びるであろう。
となれば、スピリッツ製造業者は勿論、スピリッツの原料たる穀類を生み出す地主もまた潤ってうはうはとなろう。
当時の国会議員の殆どは、当然ながら裕福な土地所有者層であった。
生え抜きのキングではなく謂わば「よそもの」の王であったウィリアム三世は、このような関税措置をなすことによって彼ら土地所有者層を自らの支持層に取り込もうとしたのではなかろうか。
ときに、このころのジンは今のドライジンとは相当に違ったスピリッツであった。
当時のジンの製法をかなり忠実に踏襲しているといわれるのがオランダジン(上記イェネファー、又はジェネヴァ)である。
主原料は、大麦麦芽、トウモロコシ、ライ麦。初めからこれらを混合して使用する。
ドライ・ジンより大麦麦芽を多く使うため、麦芽香ができあがりの酒に残るのが特徴であるそうな。
これらの原料穀物を糖化、発酵させ、単式蒸留機で2回ないし3回蒸留する。
こうして出来た蒸留酒にジュニパー・ベリーやその他の草根木皮類の香草を加え、
さらにもう一度単式蒸留機で蒸留が行なわれる。
こうしてできるジンは、香味にコクがあり、麦芽の香 りが残ったややヘビーな酒質を持つ。
そのため、カクテルのべ一スなどにするよりは主としてストレートで飲まれることが多いそうな。
さてさて。
ジンにとっても、また他の政治的な諸々にとっても重要人物であられたウィリアム三世がお隠れになった後もイギリスにおけるジンの爆発的人気は止まることを知らなかった。
ウィリアム三世の次に王位についた彼の義妹アン女王もまた、彼の政策を踏襲しジンの普及に手を貸した。
当時、ロンドンの周辺40km以内で蒸留酒を生産・販売できるのはロンドン・ディステラリー組合なる組合のみである旨法令で定められていたのであるが、彼女はその法令を廃し、誰でも蒸留酒が作ることができるようにした。
この撤廃により、以後雨後の筍の如く蒸留所が生まれることとなる。
また、彼女は前王よりもさらにブランデーの輸入税を上げ、逆に国産スピリッツの税率を下げるなどの措置をも行った。
なかなか粋なことをなさるクイーンである。
という訳で、彼らの統治後ジンはすっかりイギリスに定着し、売れに売れ飲みに飲まれた。
以後、1751年までの約60年間は俗に「ジンの時代」と呼ばれている。
実際、1690年のジンの消費量は年間200万リットルだったのに比し、約40年後の1729年にはなんと10倍の2000万リットルを消費するまでになったという。
しかしながら、これだけこぞって皆様一斉にお召しになっていれば、世に何らかの弊害が起きぬ訳がない。
実際、この時期のイギリス(特にロンドン)にはジンに纏わる悲惨な話に事欠かない。
例えば。
(その1)
1734年、ジュディス・デュフォーという女性が処刑された。
罪名は殺人罪。彼女は自分の子を殺害したのである。
動機はジン。
生活能力のない彼女は、赤ん坊を貧民院に預けていたが、ある日彼(彼女?)を連れ戻しにやってきた。
目的は一緒に暮らすため、ではなく彼の新しい着物であった。
ジュディスはその貧民院で支給された着物を剥ぎ取ったのち彼を絞め殺し、死体をドブに捨てた。
その着物は1シリング4ペンスで売れ、早速彼女はそのお金でジンを贖い飲んだという。
因みに、だいたいジン一杯の価格が凡そ幾らぐらいだったかについては、当時の酒場の看板文句が参考となる。
曰く、
「ホロ酔いは1ペニー、泥酔は2ペンス」
ということは、ジュディスは赤ん坊のおくるみでもって6回は泥酔するほどジンが飲めたということであろう。
(1シリングは12ペンスである)
(その2)
1751年、社会風刺画家として名高いウィリアム・ホガースが一枚の版画を世に問うた。
その名は「ジン横丁」
(クリックすると多少は大きくなりますが、すみません、十分に見えるほどは大きくなりません)
この「ジン・レーン」、よく見てみるとそりゃもう酷い。
・酔っ払った母親の腕から赤ん坊が地面に落ちている
・泥酔者が別の赤ん坊を鉄串で突き刺している
・女が持ち上げられ棺桶の中に入れられようとしている
・屋根裏部屋で男が首を吊っている
・大工がジンを買うために道具を質入れしようとしている
・酒場の前で母親が赤ん坊の喉にジンを流し込んでいる
とまあ、阿鼻叫喚の巷を活写した(って実際ここまでの風景は実在しなかっただろうが)おぞましくも哀しい銅版画である。
また、ここには前述の看板の文句も見て取れる。
しかしここでは一句多くなっていて、曰く、
「1ペニーで微酔、2ペニーで泥酔、棺桶用の藁は無料」
とな。いやはや。
対照的なのは、同時期に描かれた「ビール街」なる版画だ。
・人々は裕福そうに小太りしている
・テーブルの上には本が積んであり、人々はビールを飲みながらまじめな話をしている
・画家や大工など、仕事に励みながらビールを楽しんでいる
とまあこういう違いがあるそうなのだが、私にはこの人々が真面目な話をしてるんだか与太話をしてるんだかの判断は正直つきかねる。
(ビールを片手に様々な与太話をやりつやられつしてきた不肖私めの経験から申しましても、彼らとてとてもじゃないがそんなお真面目な話をしているとは思えないのだが…
つーか昼間っからビールかっくらってる時点でアウトだろうに)
なにはともあれ、この版画二枚から、当時ビールは健全な酒だがジンは不健全な酒、というレッテルを貼られていたのではないかということが推測できるのである。
とまれ。
このようにジンのお陰で(特に)労働者層にアルコール中毒者や泥酔者は増加の一方、犯罪は多発し労働力の確保にも影響が出るといった弊害が山のように発生したので、ジン産業を保護してきた政府もいよいよ何らかの対抗策を考えねばならない事態に陥った。
そこで1736年、サー・ジョン・ジキール卿なるお方がジンに関する規制法案を議会に提出、成立の運びとなった。
その法案の内容は、
・ジン1ガロンにつき5シリングの税金を20シリングに引き上げ
・ジンの販売は年額50ポンドの免許税を納めたパブリック・バーに限る
といったものであった。
いやはや税金いきなり4倍ですよ皆様。
例えるならば、消費税がいきなり20%になってしまったようなものである。
このような突然の暴挙に酒飲みども、及び酒店営業者が黙っている訳もない。
忽ち世には地下蒸留所が乱立し、闇のジンが出回るようになった。
一方、消費者たる労働者はあちこちでデモや暴動を起こし、その鎮圧までにはなんと30年もの年月がかかったというから酒飲みの恨みというものは恐ろしい。
仕方なく政府は、1765年、「無免許のパブリック・バーを取り締まる」「不正販売を禁止する」といった謂わば妥協案の法律を成立させた。
この妥協案でもどうやら一定の効果はあったらしく、以後ジンによる社会不安、労働力低下といった弊害は徐々にではあるが下火となっていった。
1800年代(つまり19世紀ね)に入ると、ジンの世界は大きな変貌を遂げる。
まず、「ジン・パレス」の台頭。
先の「ジン横丁」にでもありそうな薄暗く汚い居酒屋に代わり、数多くの鏡で囲まれ、華美な装飾を施された明るく優雅な建物がジンを供する場として次々とオープンした。
これが産業革命の申し子の中産階級にばか受けし、以後ジン・パレスは隆盛の一途を辿ることになる。
また、この時期製法も大きく変貌した。
19世紀も半ばの1831年のこと、アイリッシュのイーニアス・コフィが連続蒸留器を発明したのである。
(厳密に言うならば、この連続蒸留器、スコットランド人の蒸留業者ロバート・スタインが5年前に発明していたのだが、コフィはこのスタイン蒸留器を改良、「発明」したのである。
この蒸留器は当初「コフィ・スチル」と呼ばれたが、後にコフィが特許を取ったので
「パテント(特許)・スチル」という名になった。
アイリッシュらしく(いや、なのに、というべきか?)なかなか商魂逞しい御仁である)
この連続蒸留器、粗留塔と精溜塔を連結して連続操作を可能にした画期的な蒸留器で、
これにより従来のポットスチルよりも格段に純度の高いアルコールを得ることができるようになった。
この連続蒸留器により、アイルランドやスコットランドではブレンデッドウイスキーの台頭を見るのであるが
(ブレンデッドとは、シングルモルトと連続蒸留器によって得られたグレーンウイスキーをブレンドしたものである)まあそれは別の話なので後日に譲るとしよう。
(後日があるのか)
とまれ、英国のジン製造業者も早速このパテント・スチルを導入し、従来のオランダ生まれの「ジェネヴァ」
(前記参照)よりも一層軽く、一層ドライなジンをせっせと製造するようになった。
これ即ち現在のドライ・ジン(ロンドン・ジン)である。
我らがボンベイ・サファイヤもこの類に属する。
では、このドライ・ジンの製法や如何に。
原材料はとうもろこしに大麦麦芽にライ麦など。(ダッチ・ジェネヴァと同じ)
これらを連続蒸留器にかけ、95度以上という純度の高いグレーン・スピリッツを得たのち、
これに植物性の成分を加え、再度単式蒸留器にかけ成分の香りを染みこませる。
出来上がったスピリッツは良い香りがするが、あまりに度数がきつすぎるので水で薄めてはい一丁あがり。
「植物性の成分」とは、ジンがジンたる所以のジュニパー・ベリー(杜松の実)をはじめ、コリアンダー・シーズ、
キャラウェイ・シーズ、シナモン、アンジェリカ、オレンジやレモンの果皮、その他各種の薬草、香草などで
あるが、これらの配合や配分は各メーカーの秘伝である。
という訳で、我らがボンベイ・サファイヤも大体このような製法を経て生まれているのであるが、
ボンベイは一箇所、このような一般的な方法とは少しく違ったユニークな過程を経ているのである。
さあそれは一体なんなのか?
続きはまた今度のお楽しみー。
#正直、何について書いていたんだか見失いそうです。
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