かの養老孟司氏をして
「スティーブン・キングより怖い」
と仰らしめるという岩村暢子氏の著作(というか、データ集計)である。
とはいっても不肖私、スティーブン・キングを読んだことがないので何も言えないのだが。
この本では、綿密なアンケートにより浮き彫りになった「そこらへんの家庭」のクリスマスとお正月の食事事情が紹介されている。
飾りつけには熱心だけど、ディナーは店売りのチキンとポテトで済ますクリスマス。
実家で用意された御節をしたため、そうでない場合は買いだめしておいたコンビニおむすびやパンを家族各自が適当にとって食べるというお正月。
…うーん。
最初は「さもありなん」と思い読んでいたが、途中から「このアンケートとやら、本当なのか?」と疑いを持ち始めた。
内容があまりにも自分の「普通の家庭の食生活」に対するイメージとかけ離れているということもあるのだが、ディテールの部分で違和感を感じた部分が多々あった。
例えば、このアンケートでは文章での回答に添えてその日の食卓の写真の提出が義務付けられているのだが、その証拠写真の中には「正月の食卓風景」としてコンビニおむすびや菓子パンが無造作に放り出されているものがある。
人には多かれ少なかれ見栄というものがある。
正月の食事についてアンケートされている主婦が、幾ら匿名性が保証されているとはいえ堂々とこれがうちの正月のごはんです!とおむすびを撮影するものだろうか。
だって文章で答えるならまだしも、撮影するんですよ。撮影。
写真を撮るとなれば、嘘でもせめて御節パックくらい買ってくるものではなかろうか。
また、掲載されているちょっと非常識(と読者に思われるであろう)な主婦達のコメントの口調が、一様に
「うちはこうしてますけど、それが何か?」
という感じで、過度且つ不自然に挑発的なのも気になった。
まあ中にはそういう人もいるだろうが(こんな回答を寄せる人なのだから、恐らくは大多数なのだろうが)、少しは
「いやあ、お恥ずかしい限りですけど…」
という含羞を浮かべたニュアンスのご回答もあってもいいんじゃなかろうか。
この「一様に」というところに、やはりどうしても何かしら作り物めいたものを感じてしまうのである。
例えるならばそれは、テレビショッピングのオーディエンスが一斉に上げる「ほほーっ」という白々しい歓声に似ている。
とかなんとか眉に唾をぺたぺた塗りつつ読み進めていったのだが、最後のエピローグに差し掛かったとき、残念ながら(だろうな、やっぱり)この疑惑を方向転換せざるを得なくなった。
エピローグにはこのデータを収集した岩村氏の「気になったこと」が書いてあったのだが、それは何かというと「アンケートの内容が著しく矛盾していること」なのだという。
一方で「自分の子どもには日本の伝統や風習というものを継承していってほしい。自分もそのために色々頑張っている」となかなかいいこと書いていた主婦が正月一日には「皆自由に食べるので菓子パンをたくさん用意して好き勝手に食べられるようにした」と書いていたり。
この調子で、心掛けやと実際の食事風景が全く乖離しているアンケートを提出した人は1人2人というレヴェルではなく相当数いた由である。
岩村氏も、これ、本当に同じ人が書いたのよねえ?と思わず何度も見直してしまったらしい。
また、この一連のアンケートは紙ベースだけではなく実際に本人に会ってインタビューを行うのだが、その場でもこれらの主婦達は平気で(ここ重要)話を二転三転させたという。
このクダリを読んだとき、私は「うーん」と唸ってしまった。
ここのデータ(といってよいかは分からぬが)には、確かに真実の香りがする。
ということは、今まで「いやー、そりゃ誇張しすぎだよ。ははは」と軽く読み飛ばしていたデータ達も本当…なんだろうか。
いやー、確かに並みの怪談よりも数倍怖いわ、この本。
さて、ではこの本の感想をば。
(今までの話は、なんと感想ではなくマクラだったのです。どうだびっくりしただろう)
この本はタイトルにあるように「普通の家族」の異常な食卓風景について書かれているのだが、その元凶だと(暗黙的にではあるが)名指されているのは疑いもなくアンケートに答えた主婦その人である。
そりゃまあ、今の世と雖もご飯を準備する(敢えて作る、とは言わない)は主にお母さんなんだから、確かに第一義的な要因は主婦にあるということになるだろう。
しかし今や食以外の分野のみならず、家庭のあらゆる場面で「お母さん」が絶対的権力を振るうようになっている。
例えば「住」に関しても、家のしつらえ、ひいては家そのものが女性化しているというのはいみじくも建築家・故宮脇壇氏が喝破されていた通りである。
宮脇建築事務所にマイホームの設計を依頼せんと訪れる家族(夫婦)は、そもそもが建売住宅や大手建築メーカーではなく建築事務所を選んだという点において住に対し相当のこだわりがある方々なのであるが、その中でもあーでもない、こーでもないと口やかましく注文をつけるのは圧倒的に女性なのだという。
その注文のつけ方というのもふるっている。
例えばこう。
「あのね、映画の『風と共に去りぬ』でレット・バトラーがスカーレットを抱えて登っていく階段があるでしょ。
あれと同じような階段をつけて欲しいのよ」
いやですね、あのお屋敷と同じような階段といいましたら、お宅の敷地つきぬけて隣の隣のおうちの敷地まで占領するくらいの規模になるんですけど。
だから無理ですよと上奏しようものなら、なによ私は少女の頃あの映画を見て将来家を建てたときには絶対あの階段をつけるって心に決めてたのよ!あの階段がつけられないってんならもう家なんか要らないわ!むきーっ!と逆上なされるので、黙って鉛筆を取り上げ実物の数分の一のそれっぽく見える階段を設計するのだそうな。
(随分前に読んだ話なのでうろ覚え失礼)
それはまあ極端な話だとしても、今まで何も住のことについて系統立てて学んでこなかった(当たり前ですが)女が1人、突然家を建てるという大事業を任されるのだから大変だ。
旦那に相談しても、俺は仕事が忙しいんだから家のことはお前に任せたよ、だって一番家の中に長くいるのはお前だろう?と全権委任されることが殆どである、らしい。
そこでわっはー、じゃあ私の好きにする!それじゃあ昔から憧れだったロミオとジュリエットが呼び交うみたいなバルコニーつけてー、フリルとレースのカーテンが揺れる出窓つけてー、と雪達磨式にデコラティブになっていくものである、らしい。
上の例は少女趣味に即して書いてみたけれど、カントリー調であれアジアンテイストであれ何でもよい。
ポイントは「人一人(ここでは主婦)の『気分』に左右される」ということである。
そしてこのことは、「食」に関しても同じことが言える。
(やっと話が戻ってきました)
「今日はそういう気分だったので凝ったお料理を作ってみました」
「お正月は御節があったらいいと思うけど、そういう気分じゃなかったから作りませんでした」
等など。
食の権限が主婦に一極集中している以上、これは当然の帰結なのだ。
云わば核家族の主婦は家庭の独裁者。
用意して「頂ける」ご飯に夫も子供も何の文句もつけはしない。
いや、子供は文句を言うかもしれないが、それは十中八九よりジャンキーなものが食べたい(つまり主婦にとってはよりラクができる食事)という要求である。
だって、このような母親に育てられてきた彼らは幼少から凝った食べ物なんて食べてこなかったのだから。
知らないものに対しては要求のしようもない。
旦那は時々「手のかかる和食食べたいなあ」なんていうかもしれないが、そんなもんは他所で食べておいで!と一喝すれば済む。
#しかし、岩村氏の他の著書で「主人は生の枝豆が美味しいといいますが、私は麦酒を飲まないし、準備が面倒なので(!)冷凍枝豆しか出したことがありません」と言い放った主婦がおわした、という記述を読んだときは私は涙を禁じえなかった。
枝豆ぐらい茹でてあげましょうよ、奥さん。
ではこれらの食生活の崩壊の責めは全て主婦に帰されるのか?
それは違う。
ポイントは「一極集中」「独裁」にある。
誰であれ(男でも女でも、はたまたかのヒトラー総統でも)、権力が一人に集中すると何かしらおかしなことになることは歴史が教えるところであるし、またそこまで大仰にならずとも皆様実体験でよくご存知のところである。
さほど遠くない昔、この独裁権は「家父」つまり父に存したのだが、勿論このシステムも相当おかしなものであった(向田邦子のお父上などを思い出されよ)
そんな中でも、家庭の諸般事の七面倒くさいしきたりや決まりが連綿と受け継いでこられた理由の一には、権力者たる父がそれら諸事の大部分に直接従事しなかったということが挙げられよう。
確かに、世の中には幸田露伴みたく娘に家事を一から叩き込むというヘンコ親爺(失礼)もいたにはいたが、そういう種族はごくごく少数であった(と断言していいでしょう)
時が代わり、家族を統べたもう独裁者が父から家庭の諸般の作業を執り行う主体たる母にシフトした際、そんな面倒くさいことやってられまっか、とそれらのが簡略化・気まぐれ化したのは云わば当然の成り行きであった。
また、更には核家族化が進み、姑に舅、小姑etcといった「外部の目」が家庭から消え去ったということも重要なポイントであろう。
日本国の国会は国権の最高機関、且つ唯一の立法機関であるが、かような国会においてすら司法(裁判所)、行政(内閣)の各機関より様々な牽制を受けることはご存知の通りである。
監視や牽制を受けぬ、最高且つ唯一の権力機関。
これが暴走せぬ訳がない。
いや、絶対する。
かくして主婦という独裁者の支配下にある家庭内の食生活は、冒頭の著作に見るような様相を呈することとなった。
繰り返すが、私は決して決して主婦が悪い!怠け者だ!と申し上げている訳ではない。
この放縦な食生活は、戦後の(一部は戦前に始まっていた)家父長制の崩壊、ひいては家族解体の当然の帰結だと申し上げたいのである。
私には子もいないが、この本に登場する主婦の皆様と同じような立場となれば、若干後ろめたさを抱えつつ、誰にも何も言われないのをいいことに同じような食卓を準備するのだろう。
…いや、絶対する。
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