新しい婚姻制度に家族制度を考えてみる。

(前書き1)本文章はgoogle+に書いたネタにちょいと手を入れたものです。既視感ありありの方はごめんやしや。
(前書き2)この主張はあくまで思考実験(殆ど妄想)です。私本人が是非ともこうしたい!と思っている訳ではありません。寧ろ逆です。

たまには机上の空論を語ってもいいじゃない にんげんだもの 
みつを

というコンセプトで書いた小文です。ご諒解下さい。
(どんなんや)
でははじめ。

今一番理想的な婚姻制度、ひいては家族制度は「妻問婚+母系大家族制」ではないかと愚考するものである。
(余談だけど、今「妻問婚」と変換したところ、「妻とイコン」と出てきて、うす暗いロシアの農家の中に、おっかさんとキリスト様のイコンが彷彿として佇んでいる図が目に浮かんだ。実にどうでもよい)

まず、何故妻問婚が理想的かというと、

1.母系継承は分かり易い(血統が明らか)
2.一対一の関係は継続し難い。ましてや個人主義が蔓延した現代をや

ということが挙げられる。

1.は、まあ説明不要ですね。
2.に関しては人によりけりではないか、ウチはそんなことないです!と反論を喰らいそうであるが、昨今の離婚率の増加傾向という事実により傍証はできそうである。

しかしこの形態には問題もある。
つまり、生まれた子の養育義務・責任が母系家族のみにかかってしまうのである。
核家族ベース(年老いた両親に母)のみの家庭では子が成長する環境としていささかバランスを欠くように思われるし、また経済的にも不安である。

故に私は、この妻問婚に「母系大家族制」をプラスすることを提唱したい。
具体的には、
1.一家の主は大刀自、つまり「祖母」とする
2.その下には「母」(「祖母」にとっての「娘」)、そして彼女の兄弟姉妹である叔母や叔父達がわらわらと乱れ暮らす
3.子の「父」はまた別の母系大家族の一員であり、母の元に時折通ってくる。
といった形態の構成を想定している。

この制度で期待できるメリットは以下の通りである。

1.子を大勢の人々の中で育てることができる
孤立した核家族の中での閉鎖された子育てのデメリットについては、既に多く叫ばれているところである。
おっちゃんおばちゃん、いとこにはとこといった多種多様な人間が混在する場で育てることは、社会性の醸成等、彼/彼女の人格形成上多くの面でプラスになること必定である。

2.母(女性)の社会参加の促進
大家族の中では、手の空いた誰かが子の面倒をみてくれることが期待できる。
故に、働き盛りの母親が仕事をはじめとした様々な社会活動に参加する道が拓かれることになる。

3.少子化の解消
上に同じく、皆で子の面倒をみてくれることにより子育てが容易となり、母親にかかる負担がぐんと減る。
となれば、ふーん、じゃいっちょ生んでみようかしらん。
二人目三人目もいいわよね。
と思う女性が増えるのではないかと思われる。

4.経済的である
小さな単位でばらばらと住むより、大勢で固まって住む方が断然経済効率がよいことはもとより自明の理である。
衣食住に関して考察すると、

1)衣:貸し借りやお下がりで賄える。
2)食:個々にちまちま作るより纏めて作った方が当然ながら安くつく。
3)住:大型消費財等は皆で使うため、購入は必要最低数で足りる。

という経済効果(節約効果だな、寧ろ)が期待できる。

尚、住居に関しては大家族という性質上規模の大きなものにならざるを得ないが、構成員もまた大勢存在するので、一人あたま分の負担住居費・維持費は現状の核家族のそれよりもかなり低減することは間違いない。

5.(今流行の)省エネである
4.の効果から必然的に導き出される利点である。

…とまあ、メリットはこんなものであろうか。

一方デメリットは何か、というと、個人意識ばかり育ってしまった現代人にかような集団生活はそぐわないのではないかということであろう。
(デメリット、というか予想される反論ですね)
私も大概近代的個人主義に毒された、端的にいうと我儘な人間なので、ここまで書いておいて大変なんではあるが、自分にはちょっと無理かもしれないと思う。
親類縁者同士の、近いが故のどろどろした関係というのも面倒くさいものだ。
「血族であるからこそ疎ましい」というのもよく分かる。

何かいい方策はないかと考えてみたが、せいぜい思いつくのは個人(或いは母子)毎にきっちり個室を設ける等、住環境での工夫くらいのものである。
しかしこれも工夫しすぎてプライヴェートな空間作りに重点を置き過ぎてしまうと、結局は元の木阿弥の核家族(家族じゃないから核ユニット、かな?)に舞い戻ってしまいそうだし、難しいものである。


とまれ、かような大きな問題はあるものの、この妻問婚/母系大家族制、前述の通りそれを上回るメリットがあると考えるものである。
けれどこんなことを提案したら最後、美しい慣習であり(なのかなあ)、及び開闢以来脈々と受け継がれてきた(それは違う)一夫一妻制を否定するとは何事だ、と正しい老若男女の皆様に怒られてしまうことは火を見るより明らかである。

また、倫理的バッシングとは別に、経済産業界もこぞって否を唱えるであろう。
(勿論、その「否」は倫理的隠れ蓑を纏った姿で展開するであろうが)
だって、消費単位が激減するんですよ。
消費単位は戦後この方大家族→核家族、そして個々人へと細分化され、それに従い大量の消費財が消費(なんかくどいな)されてきたのは周知の通りである。
大家族制は、そのトレンドに謂わば真っ向から逆行するものである。
経済界にとってこんな危険な思想はない。
長い目で見れば少子化解消が期待できる→消費人口が緩やかにではあるが増加する ことも期待できるのだが、ビジネスの世界というのは無時間モデルなので(内田樹先生のパクリ)「今、ここで」損失を被る事柄に関しては断固排除、反対するであろう。

という訳で母系大家族制、そしてその提唱者は哀れ闇に葬られるのであった。しゅん。

しかし、よもや個人主義の塊のような私がこんな事を(思考実験にせよ)考えるようになるとは思いもよらないことであった。
戦後日本がロールモデルとした個人(核家族も含む)を一単位とする謂わば「強者の」ライフプランは、高度経済成長期、バブル期といった、構成員皆が強者であった(ありえた)時代にはまことに適したものであった。
だが昨今の状況を鑑みるに、この「個人モデル」は、高齢化等による弱者扶助の必要性、世の様々なリソース不足(に対応するための「省エネ」、「節電」等)、そしてリスクの増大(失業率の増加等)に対抗するための相互扶助の必要性といった社会的要請の高まりにより、その限界を呈し始めているように思われる。

更に私達は今回の震災で、この世には個々人では到底太刀打ちできぬデインジャーが起こりうるという、よく考えてみればごくごく当たり前の事を改めて嫌というほど思い知らされた。
そして、かようなデインジャーについてお上は(全くといっては気の毒だが、殆ど)役に立たないということも。
さすれば我等か弱き小さな者共は、人間関係の軋轢というデメリットは覚悟の上でも寄り集まらざるを得ないのではあるまいか。

内田先生がかつてより終始一貫して小規模コミュニティの必要性を説かれ、恐らくその具現化として今秋(だったか)道場を開設されるというのは(内田ファンには)周知の事実である。
また、今東浩紀氏編集の『思想地図β2』を紐解いている最中なのだが、ここでもまた、収録されている様々なコンテンツに繰り返し「小さな/ローカルなコミュニティ」が好ましいもの、目指すべきものとして述べられているのが印象的であった。
編集長の東氏自身も(少しニュアンスは違うが)自ら包括的なコミュニティの構築を目指す、という事をgoogle+で書かれていましたしね。

だが、このようなコミュニティが一朝一夕に成立するとは正直考えにくい。
やはり人を束ね統率し、持続的な集団を形成するためには強力な求心力(カリスマ、宗教etc)が必要となろう。
単に頭で「集団となることの重要性」が必要だと思うから集まりました、では、よほどメンバーの尊敬を集めリーダーシップに満ち溢れた中心人物(つまりカリスマですな)が存在せぬ限り、若しくは強烈な思想(つまり宗教的な「何か」ですな)が存在せぬ限り、継続的且つソリッドなコミュニティを構築することは困難であると思う。

そこで一つ、手始めに「血族」という分かり易い求心要素で纏まってみるのは如何なものだろう、と愚考した次第である。

長々と書いてきましたが、という訳で、皆様もおひとつどうでしょ。女系大家族制。

【おまけ】
「女系大家族制」でぐぐったらこんなの見つけました。

こんなの

お伽噺レヴェルだけど、でもなんかいいなあ。
個人主義にどっぷり首までつかった私はこの歳で今から飛び込め、と言われれば泣いて拒否するけど、生まれた時からずっとこの形態、というのはさぞかし暮らしよいに違いない。

憧れるくらい いいじゃない にんげんだもの 
みつを

#このオチ(逃げ?)、気に入ったな。

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浴衣de夏祭り(追記あり)

先日、とってもイケてる(死語)イベントが南御堂会館で開催された。
その名も「浴衣de夏祭り」
浴衣(或いは、夏らしい格好)で府内の有名イタリアンやビストロの供するお食事を食べつつワイン飲みつつ、おまけにジャズまで楽しんじゃおうぜっていうとってもイケてる(大事な事だから二度言いました)イベントである。
浴衣大好き、全くのど素人だけどジャズもまあ好き、食べるに飲むは当然大好きな私は、このイベントの話を聞くや否や参加を即決した。
どれくらい早く即決したかというと、入場券の整理番号が1番な位、であった。
どうだすごいだろう。
#因みに280名程が参加したイベントだそうです。

当日、これまたほぼ一番乗りで乗り込んだところ、期待に違わず素敵な食べ物の数々が待ち受けていた。

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羽山料理店&土佐堀オリーブさんから、自家製ソーセージとシュークルート。
肉の旨味がぎゅっと詰まっており、肉食女子大変満足す。
シュークルートもクミンが効いており美味しいね。


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羽山料理店名物、牛ほほ肉の煮込み(カルボナード)。
以前お店で食べたときは、まあいけるねえ程度だったのだが(すみませんすみません)、今回のこれはなにやらとっても美味しく感じられた。
やはり場の祝祭性の所為(洒落じゃないよ)かな。

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海老のタルタルとオマールのジュレ。
上に乗ってるのは柿の葉っぱだそうな。
海の幸がぎゅっとつまった一品。

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フォアグラの!フランとトウモロコシの冷製スープ。
甘いトウモロコシ(味来コーン?)のスープの中に、何やら旨い沈殿物があると思いきやなんとフォアグラでありんした。贅沢。
コーンの甘みもよいものですが、やっぱ脂の甘みは最高ですわ。
ビバ!脂肪肝。
(脂肪肝言うな)

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トリッパのパスタ。
(このショートパスタ、初見だった。名はなんというんだろ?)
トリッパやらかい。ソースも旨い。もぐもぐ。

→パスタ担当、「チェルキオ」の三好シェフに恐れ多くも直接ご教示頂きました。
「トルキエッティ」というそうです。
ソースが絡んで大変好みのショートパスタでありました。

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ブロッコリー?のパスタ。
これまた素朴に美味しい。

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平打ち麺のパスタ。
うう、だんだん記憶が曖昧になってきた。

→これまた三好シェフにご教示頂きました。
こちらは「トリポリーニ」。
片側のひらひらが印象的なパスタでありんした。

因みに、パスタで一番美味しいと思ったのはきのことパルミジャーノがたっぷりかかった一皿であった。
(なのに写真失念。うう)
また改めてチェルキオさんに美味しいパスタを食べに行きたいものだ。

そうこうしているうちに抽選会が始まった。


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眼鏡の司会のお兄さんはスーパーTVスターことマーブル・トレの竹田氏である。
→「武田」氏でした。某tatan嬢、多謝。
スーパースターの名を間違えるとは恐れ多い…

抽選ではまずはシャンパンが二名様に、そして各店のスペシャリテが三名様に当たる趣向となっていた。
まあこれだけの人数だし、当たるわきゃないわなーとぼんやりグラス片手に眺めていたら、ななななんとばっこーんと当たってしまったのであります。スペシャリテ。


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河内鴨のソテー?(多分)であります。

やー、これが旨いの旨くないの。
シャラン鴨よか旨いんじゃないの、これ。地産地消ばんざい。
ご覧の通りかなりの量あったにもかかわらず、あっという間に瞬殺さしめたことであった。
肉食系女子、満ち足りる。


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その後もおつまみがちょこちょこ出てきたりして、え、なになにこれ、本当に3500円でもいいの?という程太っ腹な構成であった。
(その分一杯500円也のワインはせっせと消費しましたが)

そ、そうだ。
ジャズも素敵でしたよ。はい。
(とかいいつつ、写真撮影を失念しているあたり何をやいわんや)

イベント終わり外に出ると、丁度南御堂さんで盆踊りが繰り広げられていた。
眺めていると先日佐渡おけさをちょっぴり齧った血(どんな血よ)が騒ぎ、いそいそと輪に飛び込んだ。

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いやー、しかし普通の盆踊りもなかなか難しおま。
1周した辺りで敢え無くギブアップしたことであった。
次はもっとやるぜ。

以上、浴衣de夏祭りレポでした。
食い物話に終始しておりますが、まあそれだけ満足だったということで。
来年も是非参加してスペシャリテ、狙ってみたいものでありんす。


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骨折顛末記

右足人差指を骨折した。

骨折した理由は、余りにもアホ臭いのでここには書かない。
しかしtwitterの方にリアルタイムでうっかり書いてしまっているので、興味ある方は(いねえわな、そんな人)其方をご覧下さい。

さて、かようにほにゃららな蛮行(当に蛮行と呼ぶに相応しい行為であった)の後、我がお御足はぱんぱんに腫れ紫色と相成った。
当初はただの打撲だと思っていたのだが、腫れと痛みが尋常ではないので半休をとって整形外科に行ってみた。

レントゲンを撮ってもらい、待つ事数十分。

「あー、こりゃ折れてるねえ」

「…折れてますか」

「折れてるも何も、指の先の小さな骨に二箇所亀裂が入ってるよ。
まあ、ばらばらやね」

「ばらばら…」

「一箇所やったらね、テーピングでいこうと思ってたんだけどこれじゃダメやね。親指と一緒に引っ付けて添え木でいくわ」

という訳で、幸いギブスとまでは行かなかったものの、以後の私は
「ちょっと片足が大きい人」
と成り果てたのであった。

「あとね、骨折の上、怪我あるでしょ。
これがかなり危険だよ。黴菌入ったら手術になっちゃう」

「しゅじゅつ…」

「下手したら、指切断なんてことにもなるかもよ」

「ひいいいい」

「だから抗生物質も出しとくからね。ちゃんと飲んでね」

「はい飲みます。飲みますったら」

さて。
骨折は、面倒である。
(以後当たり前の話の羅列ですが、本人的には初めての経験故目新しく思ってますのでつらつら書かせて頂きます)

まず歩きづらい。
(前置きしたとはいえ、いくらなんでも当たり前過ぎやしねえか)
普段とは全く違った歩き方をするものだから、変な場所の筋肉が痛い。
今顕著に痛いのは右、即ち患部の足の太もも外側と左足の膝である。
特に左足はいつもより体重がかかるものだから不自然に痛む。
早く慣れねば、と思いつつも期間限定のことでもあるし、これに慣れるのも如何なものかとも思わなくもない。
歪な形に筋肉がついてしまったりしたら厭だなあ。

変わったところでは、腕の付け根が痛い。
私は普段歩く際に腕をほとんど振らないのだが、こういう事態となり色々試行錯誤した結果、ひょっとして腕を振って歩いた方が歩き易いんじゃねえのということに気づき(何をやいわんや)、以後惜しげもなくぶんぶん振って歩いている。
そうなると、腕の付け根、及び二の腕が痛むようになってきた。
しめしめ。
ひょっとしたら、これをきっかけに何してもどうしても達成できなかった二の腕ダイエットできるんじゃないの?
等とアホなことを夢想する今日この頃である。
だって、それ位のおまけがつかないとやりきれませんぜ。全く。

次に、お風呂に入りづらい。
ビニール二枚重ね(普通のビニール袋とジップロック)で患部あんよをくるみ、更に湯船のへりに足を上げ、粛々とシャワーを浴びている。
冷静に見ると、いや見なくてもこの姿、滑稽なことおびただしい。
(池波正太郎風に)
バランスを崩してひっくり返ったら、ますます滑稽なことおびただしい。であろう。
なのでそれだけはせぬよう、間抜けな姿ながら細心の注意を払いつつ風呂っている今日この頃である。
早く湯船にゆっくりつかれる普通の生活に戻りたい。ああ戻りたい。

あと、履ける靴が一足しかない。
なんせ片足が少しでかく(正確に言うと、長く)なっているので甲を横に留める、所謂「便所サンダル」型のものしか履けないのである。
#「所謂」云々というのは勿論私の独断と偏見です。
かようなブツをオサレなアテクシが持っている訳もなく、困ったなあこりゃ、スーパーにでも行って骨折用の靴ってかべた履き買いに行くかと思っていたところ、一時期カジュアル系の装いに凝っていた頃買って結局殆ど履かなかったビルシュトックのサンダルをベランダ履きにしていたことを思い出し、急遽外履きへと昇格させることにした。
それでもやはり、包帯と添え木をぐるぐる巻きにされているあんよには幅が狭すぎたので、バンドに千枚通しで穴を開けるとあらぴったり。
絶妙な骨折仕様の靴が出来上がった。
とはいえ、ビルケンは素足で履くようにできている故底に微妙な隆起があり、それが真っ直ぐの添え木に若干フィットせず少し反ってしまうのだが、何せこのあんよが収まる靴があるというだけでも有難いのであって、「若干」やら「少し」などといった違和感をどうにかせえなどという贅沢を言っている場合ではない。
いやしかし、夏に骨折しておいて本当によかった。
冬であれば、本当に何履いていいやら分からぬではないか。
勿論、骨折しないのが一番よいということは言うを俟たぬが。

さてかような骨折騒ぎから一週間経った頃。

「ほほう、傷治ってますね」

「…そうですか。余り治っているようには見えないのですが…」

「いや、これならもう大丈夫。よかったねえ、黴菌入らないで。
ほら、南方行った昔の兵隊さん、骨が折れたところに菌が入って骨髄炎になって復員してからも本当に治らなくて大変だった人が多いんだよ」

「…ああ。聞いたことあります」

(看護婦さん登場)

「先生ー?傷口、消毒しておきますかー?」

「ああ、もういいよ。これなら大丈夫」


いや。
そんな恐ろしい前ふりしたんだったら、そこは念のために消毒してよ。

と言いたかったが気が小さい私は言えなんだ。
ああ言えなんだ。

という訳で只今骨折歴一週間と半分である。
二週間後の川床、浴衣着ていこうと思ってたけどどうやらその時までに添え木は取れそうにはない。しくしく。
まあせいぜいせっせとカルシウムでも摂って回復に努めようと思う次第である。

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OSAKAID 2011 立ちあカーレー

去る7月17日、大阪は上本町の清風学園にてかようなチャリティイベントが開催された。

OSAKAID 2011 立ちあカーレー

要は関西の料理屋さんが集結してカレーを作って売ってチャリティしましょうというイベントである。
前売り券2,500枚は事前に完売したというから素晴らしい。


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会場図。
合計15ブースのうち、13ブースがカレーを供する。
1ブースにつき2店舗が営業?し、第一部(10:00~12:00)、第二部(13:00~15:00)で店が入れ替わるので50種類以上のカレーが楽しめる趣向である。そんなに食べられへんけど。

前売り券は3,000円で、このイベント内擬似通貨「10えーど」がついている。
大抵のカレーは1えーど(麺類など大盛りのもの、または食材が豪華なものは2えーど)で、酒類は例えば350mのビールが1えーど、500mlなら2えーどといった具合であった。
#そしたら350mlのほうがお得やね。
他にもワイン、スパークリングのフルボトルなんかも7~10えーど位で供されていた、様である。
でも、カレーにはビールっしょ。やっぱ。
異論は認めない。(何様)
しかもこの日はくそ暑かったし。

それでは、素晴らしいカレーの数々をご紹介しよう。

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さあ、皆様ご一緒に。

何がなんだかさっぱり分からへんわー

へんわー(エコー)


ご唱和ありがとうございました。
何を隠そう、撮影者も今こうやって見て何がどれだかよく分からぬであります。(びしっ)

しかし今手元に、当日供されたカレー一覧、及び何を食べたかチェックしたリストがあるのでそれを参考に旨かったカレーを羅列してみようとぞ思う。
ここだけの話、正直アレなものもあったが、ま、そこは大人なので触れぬ事にする。
しかしカレーってそんな不味く作りようがないと思うのだが・・・(はいはい以下は自重自重)

・牛筋入り焼きチーズカレー
言わずと知れたうどんの名店、情熱うどん讃州さんのもの。
バーナーで焼き色をつけたチーズは分かり易く旨いが、それよりもベースのカレーが飛び切り美味しかった。
こりゃあ一度カレーうどんを食べにいかねばなるまいて。
(と、こういう営業効果もあるんですわな。この手のイベント)

・岩手産白金豚と京都男前豆腐のキーマカレー 七味の香り
これまた言わずと知れた京都のイタリアンの雄、イル・ギオットーネさん作。
キーマの肉の旨味がなんとも言えぬ。

・まかない仔羊カレー
言わずと知れた(もうええか)旨いワインと旨い料理が頂けるカモシヤクスモトさん作。
こんなまかないが食べられるのなら夜のバイトに馳せ参じたいものである。

以上が(私が食べた中では)三傑であった。
他にもステーキカレーなどというそそられるものも多数あったが、見ただけでおえっとなるほどの長蛇の列が連なっていたので、そういう人気系からは潔く(といえば聞こえはよいが)さっさと戦線離脱した次第である。

やー、でも楽しかったし美味しかった。うん。
また来年も規模を拡大して(これ以上拡大するんかいな!)開催するそうなので、その節には是非参戦したいものである。

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ダンシャリアンの休日

冒頭の「ダンシャリアン」はダルタニアンの親戚、とかではない。
(三銃士ファンの人ごめんなさいごめんなさい)
なんでも、巷では最近「断捨離を実行している人」をこう呼ぶらしい。
だれが考えたか知らないが、ダサいナイスな呼称である。

で、私も最近せっせとダンシャリアンしている。
(用法、これでええんかいな)
やればやるほど、何で自分は後生大事にこんなゴミばっか溜め込んでいたんだという反省の念と、何で自分はこんなゴミを嬉々として手に入れてきたんだという後悔の念が押し寄せてきてちょっぴり、いやかなりほろ苦い心持ぞするのであるが、しかし一箇所でもダンシャリった後の爽快感、達成感は何ものにも替えがたい。

最近私がダンシャリったのはこんな物共である。

・写真
データがあるもんねえ。

・CD、MD
どうしても聞きたけりゃネットで落としてきますよ。

・ビデオテープ
第一ハードがないから見れやしない。

・年賀状
住所確認のため1年分残して処分。どーせ見直して懐かしむなんてことありません。

・学生時分の合唱団衣装
黒スカートは今の合唱団でも着るからとっておいて、ブラウスにイカドレ(ほれHんこんOB・OGの皆様懐かしかろう)はさよならした。
てか未だにそんなもん置いてたんかい。

・スキーウエア
かれこれ10年前、今より5~6kg太っていたときに誂えたものが出てきた。
おかん(私より10kgオーバー)に着せてみてもぶかぶかだった。
うん、要りません。
てか幾らなんでもでかいの買いすぎだろう。10年前の自分よ。

・ビーズ細工作成グッズ
これはまだ再開するかもしれないので(この言葉自体に「しない」フラグが立っているような気もするが、それはまあさておき)、今では作ったとしても死んでも身につけないであろう派手派手なビーズやパーツの類を選び処分することにした。

・自作のフォトフレーム
貝殻がいっぱいくっついている。
誰?こんな趣味の悪いの作ったの。
でもって、誰?こんな暇だったの。

・自作(というか自分で飾りつけた)クリスマスツリー
はい処分。

・しみのついた服
はいはい処分処分。

・コスプレですか?的ワンピース
2年前までは着られたんだけどねえ。
流石にそろそろ自重しましょうそうしましょう。

・スーツケース
一つ買ったら一つ捨てる。これ鉄則。

・コードの類
USBコードは2種残して処分。
カメラとテレビを繋ぐコード(なんていうんだろ?黄色と赤と白のアレですよ)も処分。
大体テレビで写真見ません。見たことあります?

・MDウォークマン
使わねえー。


因みに捨てなかったものもある。

・おこたぶとん
基本的にフローリング生活なので不要なのだが、今年は節電やらなんやらでひょっとしたら要ることがあるかもしれぬと思いとっておくことにした。
部屋一面にエアコンかけるよりは、こたつを使うほうが或いは節電になるのではあるまいか。

・草笛
上記、学生時代合唱団の他己紹介。
自己紹介じゃなくて他己紹介。
我が団には、新入生に先輩団員のことを知ってもらうべく、団員それぞれが他人に己の紹介文を書いてもらい、そしてそれに本人が何かしらのコメント(つっこみ)を挿入したものを作成する、という美風(でもないな)が存在した。今もあるかしらんが。
それらを人毎に編集したものがこの『草笛』である。
我が家にはこの草笛が4年分、1冊の欠けもなく存在する。
いっそPDFにしてパスワかけたサイトに置いてアーカイブ化しますかね。
そんな暇があればの話だけど。
(ありません)
定年退職を迎え、子育ても終了した頃、温泉ツアーでも組んで皆でこれ見てわいわいがやがや盛り上がれば楽しかろうなあ。
と密かに思っている次第である。

そんなこんなでダンシャリアンの休日は終了し、あとに残されたものは45Lゴミ袋10袋であった。
嗚呼、汝、環境の敵也。
しかしこれらを死蔵しておくのも、結局は環境の敵にして無駄な居住スペースの圧迫なんですよねえ。

最後に。
この日せっせとぽいぽいしていると、チャイムが鳴った。
誰だろねえ、と思ってそのまま作業していると、おかん、いや母上が現れた。
手には宅急便の包みが一つ。

「あんた!またネットでモノ頼んだやろ!」

「あ、そ、それは…」

「幾らせっせと片付けたって、次から次へとモノ買ってたらきりないやろ!」

全くの正論にぐうの音もでません。ごめんなさい。
だから私、「捨」はできても「断」ができない女なんですってば。
当に環境の敵。呵々。←笑ろとる場合ちゃうで。

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「断捨離」雑感。

最近、巷で大人気らしい「断捨離」が気になっている。
字面だけ見ると何やら物凄い熟語だが、これはつまり
断=入ってくる要らない物を断つ
捨=家にずっとある要らない物を捨てる
離=物への執着から離れる
を意味するらしい。(wikipediaより)
#てか、wikipediaがあるってすごいよな。

構成要素の半分が物欲である私にとっては「断」は至難の業であり(いや、買うときは「要る」と思っているのよ、勿論)、「離」に至っては神か仏にでもならねば成就は叶わぬと思われるので、主に「捨」の部分のみに絞ったアプローチを試みている次第である。

そもそも、私は「捨てる女」である。
よく、主に女性でものを買ったときに付随するショッパーやら空き箱やら包装紙やらが捨てられぬという方がいらっしゃるが、私はばりょばりょばりょと開封してはぽいぽいと捨てるタイプである(粗雑である、とも云う)。
あと、おまけや景品の類も容赦なく処分してしまう。
更には処分するのも手間なので、そもそも貰わないことを心がけている。
(故に、昨今の雑誌の付録の豪華化の趨勢にはほとほと困じ果てている。このトレンドが主流となってから雑誌を買う頻度が激減した)

かように捨てる女な私であるが、にもかかわらず居住スペースには不用品がごろごろ転がっている。
体型が変わって着られなく(より正しく言えば着たくなく)なった服やら。
とっくに流行遅れなのに高かったなので手放したくない服やら。
気にいってはいるんだけど、何が原因だか知らないがなんとなく手に取らない服やら。
何故かしら例示が服に偏っているがそれはまあさておき(ま、つまりは一番手こずっているモノだということだな)、兎に角こういった類のものが我が生活を侵食しているのである。

ここで断捨離の提唱者、やましたひでこさんの有難いお言葉を見てみよう。

断捨離流の整理術は、
収納法でもなく、モノに焦点をあてるのでもなく、
自分とモノとの関係性をひたすら問う手法。
結果、おのずと、自分と自分自身との関係が明らかになってくる。

この「自分とモノとの関係」を真剣に考える、という所行は道徳くさい分かりきったスローガンのようだが、いざ真面目に考えてみるとこれが結構厄介であることに気づく。
なんとなれば、身の回りを少しでも省みたならば
「ちょっと可愛かったから買ってみました」
「なんとなくお手頃だったから買ってみました」
「なんとなく目に付いたから(以下略)」
とかいう「ちょっと」「なんとなく」的曖昧な動機で購ったモノがごろごろ転がっているものではありませんか。
ね?
(無理矢理一般化)
そんなモノどもとお前の関係性(持つことの必然性と置き換えてもよいだろう)は一体なんなのだ、と問い詰められても、「ちょっと」「なんとなく」としか答えようがないではないか。


この「思考」は、最終的にはきちんと説明できる関係がない、或いは説明ができないモノは持たない(或いは捨てる)ということに繋がろう。
ウチ(阪神タイガースのことです)のキャッチャー、城島は嘗て
「今まで僕がリードした球で、その球を指示した理由を説明できないものは一球たりともない」
と豪語していた。
やましたさんはつまり、モノを買うとき、選ぶときにはかように真摯、且つ賢明なキャッチャーの配給選択と同等の気迫をもって臨まねばならぬ、という事を仰りたいのだと愚考する。
#あの配球でそんな口叩いてるんだ城島、等という突っ込みは文章の趣旨から外れますのでご遠慮願います。
##や、私も勿論そう思っているんですけど。

かように、やましたさんのお言葉には掬すべきものが多い。
時として陳腐な教条主義に堕ち(すみません)、断捨離すると「いい気」が入ってきて運勢がよくなりますよ!的な一歩間違えれば新興宗教ですかそれはという言説も見受けられなくはないが(すみませんすみません)、それでも此方のアレルギー要素や頭悪そう要素(すみませんすみませんすみません)を忌避し、お湯と一緒に赤ん坊を流してしまうのは余りにも惜しいと思うものである。

でも確かに、きれいさっぱり住まいを片付けて自分が心から愛する(なんていうと口幅ったいが)モノだけに囲まれて暮らしていれば、そりゃあ毎日ご機嫌にもならあな、という気もする。
(この「ご機嫌」というのもやましたさんのよく使われるタームである)
管理するモノが少なければ頭もすっきりしようし、その分余ったリソースを他にすべきことに振り分ければめでたしめでたしだ。
また、断捨離したことで運気が好転するの。好転するんだってば!
と信じきっていたらプラシーボ効果で本当に好転することだってある、かもしれない。
たとえ何も起こらなくたって部屋がきれいになったんだったらめっけものだ。

ちう訳で「断捨離」、おすすめだと思います。はい。
そこの貴方も新興宗教チックだと忌避しないで(それは私だけか?)、一度だまされたと思ってやってみては如何。

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近況のようなもの(ダイエットの巻)

先だっての2月に入ってから、年度末のどたばたで食欲が激減した。

なので、これ幸いと第163回目(数字は適当)のダイエットに挑むことにした。
講じた方策は以下の通り。

・夕飯を減らし、野菜まみれにする
(というか、帰宅が遅かったので強制的に量が食べられなかったのである)

・昼ごはんの弁当のおかずを野菜まみれにする
(今まではミートボールやらナゲットやらのお手軽肉系弁当おかずを用いていたが一切排除。身体にもよさそうではないか)

・朝ごはんはお茶漬けさらさら
(生協に売っているわさび茶漬けが旨い。
ないときは永谷園のわさび茶漬けで我慢するけれどわさびのパンチがいまひとつ足りなくてふまーん)

・毎日呑んでいた酒を週3回にとどめる
(個人的にはこれが一番の偉業である)

・スクワット
(朝60回、夜100回。結構しんどいよ)

・二の腕に効くとか効かないとかいう後ろ手バイバイ運動
(朝、夜70回)

・(最近になって)腕立て伏せ
(朝、夜30回)

・風呂場でボディオイル使ってあちゃこちゃマッサージ

・yahooのダイエットダイアリーをつける
(食べたものを逐一記録するのは面倒故長続きしないのが目に見えているので、それらを書くのは気が向いたときだけにし、体重と体脂肪だけは毎日欠かさずつけるようにした。
しかしなかなかどうしてこれが効き目があるのだ。
なんといってもこれらの数値が綺麗に折れ線グラフ化され、増減が一目で分かるようになるのがよい。
タダだしお勧め)

これらを2ヶ月続けた結果、目出度く体重3kg、体脂肪率約3%減と相成った。
近年稀に見る快挙である。
自己評価としては、体重の減少よりも体脂肪率が憧れの10%台となったことに満足を覚えているものである。
いひひ。

しかしながら、自分的に肝心要の四肢部分は殆どといってよいほどサイズダウンしなかった。
特に「肩から足が生えているようだ」と一部で好評(じゃねえな)を博している長年の宿敵・二の腕は、これでもかというほど集中攻撃を浴びせたにもかかわらず些かもその威容を減じた様子はない。
故に上記の通り、最近になって集中攻撃メニューに腕立て伏せを加え、かような硬直状態の打破を試みている次第である。
GWの旅行(勿論沖縄)迄には肩から太目の腕が生えている、程度には改善させておく心算だったのだが致し方ない。

とまれ、今週末は少し痩せたその身体に似合う服を探して~♪街に繰り出す予定である。
誰も振り向きゃしないだろうけど。
(振り向かれても困るけど)
いいさ、このご時世だしせっせと消費活動に勤しむことにするさ。

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spring has come.

昨日、桜の名所として名高い淀川河川敷の背割堤というところに行ってきた。


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ここに初めて来たのは去年のこと。
その頃は、新しい職場に移ったばかりで目の回るような日々を過ごしていた。
経理の仕事故、来年の今頃はきっと年度末処理に追われて半死半生なのだろうなあ。
と桜を見つつぼんやり憂鬱な予感に囚われていたのを思い出す。
結局、確かに忙しいことには違いないが恐れていたほどのことはなく、なんとか元気に今年もこの桜を見ることができた。

日本中の皆が、後顧の憂いなく心から桜を楽しめる日が来ることを心から祈っています。


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無題

お久しぶりでございます。

思えば3月に入ってからというもの、年度末のエクストラヴァガンツァ(どんちゃん騒ぎ)に巻き込まれ、碌にブログを書く暇もありませんでした。

そして件の東日本大震災。
あの日私は職場にいて、同僚の皆と一緒にテレビを見ていました。
燃え盛る石油コンビナート、リアルタイムで押し寄せる津波、流されて行く森羅万象。
ただただ声もなく足が震えるばかりで、仕事など全く手につきませんでした。
すぐに阪神大震災のことを思い出しましたが、今回のそれはご存知の通り規模も範囲も遥かに凌駕したものでした。
この震災での死者は2万人を超えるであろうと言われています。
今現在の、同じ日本で2万人の人が亡くなっているということ。
私には未だ想像ができません。
これからも多分できないと思います。

あれから二週間と少し。
現在進行形で続いている原発の問題もあり、状況は少しもよくなっていないようです。
幾ら心を痛めているとはいっても、何の被害もなかった西日本に住んでいる私にとっては、情報は皆ネットとテレビ、新聞による報道によって伺い知れるものばかりです。
かたや死屍累々の惨状があり、寒さに震える被災者の皆さんが30万弱もいらっしゃるというのに、私はこうやって暖かい部屋で何不自由なくPCを眺めている訳です。
幾ら悲惨な情景を映し出すテレビを見て涙を流しても、その涙は被災者の皆さんにとって一文の得にもなりません。
この乖離感、罪悪感は日に日に増していくばかりです。
増していったからといって何も行動する、そしてできる訳でもないので全くの無意味なのですが・・・

被災者ではない人間が今できることは募金、そして普段通り暮らしていくことなのだといいます。
素人がボランティアに行っても足手まといだから今は入ってくれるなとも聞きます。
その言葉で己の罪悪感を拭ってほっとしていることは否めないのですが、確かに実際問題、できることはそれくらいしかないことは事実です。
先日、ささやかながら父の会社を通じて募金をしました。
これからも少しずつではありますが、継続的にやっていこうと思います。
それが被災しなかった私の最低限の責務だろうと思います。
あくまでも最低限、ではありますが・・・

なんだか書けば書くほど余計なことを書いている気がして、その実考えていることは何一つ書けていなくって歯痒いばかりです。
いっそ何も書かない方がましだったかも知れません。
読んでくださった方、内容のない記事で本当に申し訳ございませんでした。

ブログは、そのうちまた再開する予定です。
内容は以前と同じく、買い物話や食べ物話、そして身の回りのくだらない話です。
所謂「不謹慎問題」には全く頓着しないのですが
(私は、被害者側に寄り添うふりをして弱者の立場を嵩に着て、なにかしらにつけ「不謹慎だ」とかしたり顔でいう輩が大嫌いです)
自分がまたそういう話をできるようになったころに再開したいなあと思います。

最後に、この震災で亡くなられた方のご冥福と、被災者の皆さんが一日でも早く元通りの生活を取り戻されること(しかしそれはなんと難いことでしょう!)を祈りつつ筆を於きます。


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雪のオオサカ(その2)

ちう訳で(ちう訳、が分らぬ人は此方を読んでくれたまい)雪の中ショートドライブと洒落こんだ我らが母娘である。

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ここはとある並木道。
欅の木々で(地元的に)有名なスポットである。
普段通り慣れた道でも雪化粧を施されると新鮮だ。
思わず車から降りてぱしゃぱしゃ写真を撮る。

…ん?

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へへへ、おいら怪しいもんじゃないよ。ベロっていうんだ。
…なんてのもこの子たちには通用しないんだろうなあ。
(通用したってどうだよという話だが)

では、よりまともな写真をどうぞ。

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いやいやいいものですねえ。
雪が珍しい畿内の人間故、(雪国の人から見れば)当たり前であろうこんな景色にも大興奮して鼻血がでそうになるのである。
新緑の頃、紅葉の頃もいいけれど、白装束を纏った欅というのもよいものだ。

そして、ここはとある公園。
入るのは面倒なので(寒いし)、柵越しに写真を撮ってみた。

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「あらあら素敵じゃない」

「確かに。なんの面白みもない公園だと思ってたけど、雪が降ると乙粋なものですなあ」

「まるで兼六園みたいね」

「うんうん。母、それは言い過ぎです」

そして、私はここでも初老のご夫婦にガン見されたのであった。
へへへ、おいら怪しいもんじゃ(以下略)

しかしなんでそんなに写真撮ってるのが怪しいかねえ。
あなた方だって雪景色を愛でに来てるんじゃありませんか。
解せぬわあ。

とまれ、そんなこんなで所要20分程度のショートドライブは終了。
連れ出してくれた母には感謝感謝であった。

(おまけ)

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雪の中頑張る我が家の葉ボタンちゃん。

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