見せる収納。

Dsc_1229s

指輪がどうも増えすぎたので、リングケースなるものを買ってみた。

いやー、これいいですね。
今まで漫然とドレッサーの引き出しの中の仕切りに仕舞っていた指輪が一目瞭然。
出番がなく眠っていた指輪もこれで陽の目を見ることとなった。
また、このケース、なんだか昔の駄菓子屋さんに置いてあった売り物のおもちゃリングを陳列するケースに似ている。
これからは毎日付けていく指輪を選ぶのも楽しくなりそうである。

なのだが。
画像をご覧いただけたらお分かり頂けるかと思うが、このリングケース、かなり「空席」が目立つ。
私は普通の人よりも指輪持ちであると自負しているが(ま、それこそ「おもちゃ」ばかりだが)、手持ちのものを全てこのケースに収納しても半分も埋まらない。
なんでも、このケースには132個(!)の指輪を収納することができるそうである。
このリングケースを全て埋めるには指輪版イメルダ夫人にでもならないと無理であろう。

という訳で、読者諸賢氏の中で私になにかくれてやろうと思し召される奇特な方がおられましたら、高価な(ここ重要)指輪を頂けましたらこれ幸いに存じまする。
おっ気軽に♪
#自分で書いといてなんだけど、このネタ懐っつかしいなー。

(追記)

この収納っぷりを誰かに自慢したく母に見せたところ、

「やーん、この指輪いいわねー♪
あ、これもこれもこれもこれも」

と危うく半数以上持っていかれるところであった。
…恐ろしい子…!

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ファッション雑感。

私はお洒落をするのが好きである。

大急ぎで言っておくが、このことは即ち私がお洒落であることを意味しない。
何故なら、聡い方ならとっくにお分かりだとは思うが、
「お洒落をする」の「お洒落」はあくまで主観のそれであり、
「お洒落である」の「お洒落」は少なくとも世の大多数のコンセンサスを得る程度には
客観的でなければならないからである。
なので、冒頭の言をより厳密に言い換えるならば、

「私は、私がお洒落だと思うところの装いをするのが好きである」

ということになる。

#ああ、うっとおしい。

まあよい、という訳で以上のような意味で私はお洒落が好きである。
それは何故かというと、母に幼少の頃から叩き込まれた
「馬子にも衣装」
というありがたい教えが骨の髄まで染み渡っているからである。
また、母方の叔母たるみきちゃん(バックナンバー参照)から叩き込まれた
「美しくなる為ならいかなる努力をも惜しむな」
というありがたい教えが皮膚層数mm程度には染み渡っているからでもある。
#ここんところが骨の髄まで染み渡っていたら女としてもう少し何かが変わっていたかも知れぬと思うと、口惜しいようなそうでもないような複雑な気持ちになる。

しかし、この歳になって私はさっぱりお洒落というものが分からなくなった。
若かりし頃、
「流行に左右されない『私』にぴったりのファッションを目指すのだ」
というようなまやかしごとを信じ、実際そういったお洒落をしよう!と真剣に考えていたのであるが、
齢三十路になってやっとそれが顔を洗ったような絵空事であったということに気づいたのである。

ここで、数知れぬ服を買っては着て、着ては買ってきた私の覚書を記す。

1.ある程度高い服を買え。しかしばか高い服は買うな。
2.服とは、即ち流行である。定番の服というものはない。
3.己を知れ。

まず、1について。
要は、どんな服にも賞味期限というものはあるのである。
ある程度高い服は賞味期限が長い。そう、まあ、10年は着られよう。
しかし、「ある程度」高い服と「ばか」高い服では賞味期限はそうは変わらない。
また、仮に「ばか」高い服が20年着られたとしても、30歳の時に着る服と50の時に着る服じゃあ
自ずとテイストが変わってくるというものだ。
体型だって変わろう。
なので、ばか高い服をお買い求めになるのは、例えそれがいくら「定番」の「質のよい品」であったとしても、コスト&ベネフィットの点から見ても非常に損だと言わざるを得ないのである。

次に、2について。
「定番の服」といえば皆様は何を思い浮かべられるであろう。
私が思い浮かべるのはジャケットである。
丁寧、かつかっちりした仕立ての、フォーマルでもカジュアルにでも着こなせる高級素材のジャケット。
これこそ年代、世代を超えた定番の服といえるのではなかろうか。

しかし。
「ジャケット」と雖もその種類、色、素材、カッティングは千差万別である。
例えば、私が高校生~大学初期の頃に流行っていたジャケットは「紺ブレ」(うわー)。
「トラッド」「プレッピー」(80年代のファッションの揺り戻しが来ていた頃であった)がファッションのキーワードだった頃である。
確かに紺のブレザー自体はそれほど流行り廃りのないアイテムである。
今でもスタイルさえ選べばさほど街では浮かないであろう。
寧ろ「お洒落」であるかもしれない。
だがしかし、今2005~2006年の秋冬、この手のジャケットを着て街を闊歩なさる女性を、少なくとも毎日大都市大阪に出て行っている私は一度も見たことはない。
あの流行から時は流れ早10数年経っているのではあるが、「お堅く定番で流行がない」アイテムで、かつ皆様当時そこそこのお金をはたいて贖われたであろう「紺ブレ」を着た女性をひとっかけらも見ないというのはなかなか由々しき事態なのではなかろうか。

かくいう私も、当時は紺ブレを着ていた嫌らしい女子高生~大学生であった。
そのトラッド性にほだされた母は(今も昔も母親というものは保守的なお洒落には弱いものである)、
まだ娘っ子だった私にかなり高級な「紺ブレ」を買い与えてくれたものであった。
しかし今、私はこの高級だった紺ブレを着ない。
サイズは当時と全く変わらないのだが、着ないったら着ない。

何故なら。

当時流行っていた「紺ブレ」のディテールは

・ダブル仕立て
・総金ボタン(勿論カフスボタンも)
・肩パッド入りまくり
・メンズカッティング(要はウエストシェイプ全くなし)

といったものだったからである。

…何でえ何でえ。
それでも紺のブレザー(ジャケット)には変わりないではないか。

等とそこの殿方よ言うなかれ。
ディテールの違いは服にとっては(そして、女にとっては)致命的なのである。

…じゃあ、直して着ればいいじゃないか。素材はいいものなんだし。
ダブル仕立てに寸胴仕立ては我慢するにしても、ボタンは変えて、肩パッドは取っちゃえばいいじゃん。

そう思われる貴方。
貴方も残念ながら、お洒落に関してはど素人であると断言しなくてはならない。

ボタンはともかくとして、肩のラインというものはジャケットの生命線である。
最初から入っているということを前提とした肩バッドを外してしまったジャケットのシルエットは見るに耐えない。
まだツイードなどの張りのある素材なら見れなくもないのだが、サマーウールやカシミアといった繊細な素材のジャケットだとその結果は散々たるものである。

要は。
長々といらんことを書いてきたが、

「定番中の定番と思われがちなジャケットですら流行というものはある。
ましてや他の服をや」

ということを私は言いたいのである。

最後に、最も哲学的と思われる(ほんまかいな)3についてお話しよう。
とはいっても、ここまで読み進めて下さった(奇特な)方々は「3」が何であるか覚えてはおられますまい。
なので、ここにペンにインクを詰めなおして墨痕淋漓、記し直すとしよう。
#ペンにインクちゃうやん、などという無粋な突っ込みは当ブログでは受け付けませんので以後お見知りおきを。
即ち、



3.己を知れ。



である。

これには、
①己の体型(及び、品格)を知れ
という意味と
②己の経済力を知れ
という意味が含まれる。

先ずは先の①己の体型(及び、品格)を知れ というところから話を始めよう。

先のジャケットの件(くだり、と読んでね)で、ふとこのような感想を持たれた方もいらっしゃるかもしれない。

「でもさ。
シャネルのジャケット(スーツ)、あれは数十年を経ているけど未だに色褪せないデザインだよね。
ばか高いのは承知だけど、やっぱりいいものは流行を問わないんじゃないのかな?」

はい。
これは、確かにその通りです。
ディオールのオートクチュールのドレス(ヘップバーンが着ていたやつね)、シャネルのスーツは時代を超えて女性の憧れの的、賛美の対象であると思う。
私も、これらを見るたびに
「種において完璧な物は種を超える」
というだれかさんの言葉を思い出す。
#誰だったか思い出せないのはかなり酔っているからです。ご寛恕を。

しかし。
残念ながら、私(身長148cm、体重ウンkg。今流行の『150cmライフ』とかいうエッセイ?の著者さんより小さいのだ←微妙に自慢)にはどう逆立ちしたってシャネルのスーツは似合わないのである。

要は、パリコレのオートクチュール、ディオール、シャネルの服は「芸術品」である。
芸術品には一点の瑕もあってはならない。
それは、身長170cmUP、体重40kg台の、これまた芸術的な体格のモデルさんがご着用されて初めて完成品となるのである。
ゆめあなたや私のような胴長短足、ずんぐりむっくりの大和撫子(過大表現)が着てはならないのである。
#私と一緒にするのは読者諸姉妹にはまことにもって失礼な話なのは百も承知なのですが、
おおまかにいってこれをお読みの読者諸姉妹は世に言うスーパーモデルよりは体格はおよろしくないとの仮定をもって話を進めさせていただいております。
悪しからずご了承ください。

まあ、オートクチュールまで話を進めずともよい。
私は、私の愛読雑誌「ヴァン○ーヌ」でここ数年来大いに持て囃されている「ミラノスタイル」とやらをいいなあ、素敵だなあ、と毎回うっとり眺めているが、これが自分には死んでも似合わないということはよーく自覚している。
このファッションは紅毛碧眼に生まれついた足の長ーいシニョリーナの為のものだ。
「コトレッタ・アッラ・ミラネーゼ」(ミラノ風カツレツの意。バターで揚げるのだ。んまいぞ)は大好きだけど、己が逆立ちしても輪廻転生してもミラネーゼにはなれないことは百も承知である。
#いや。ひょっとすると輪廻転生したらなれるかもしれないか?

しかし、雑誌を読んでいて彼女達のお洒落のディテールに啓発を受けることは多々ある。
まるごと彼女達を真似したら、それはただの可哀想な三十路のおちびさんであるが、
ミラネーゼにも、パリジェンヌにも、はたまた通りすがりの浪花の若いお姉ちゃんにも学ぶべきお洒落のエッセンスは沢山ある。
必要なのは、己の体格、及び己に備わった品性を先ず知り、そして己に合うお洒落のエッセンスを取捨選択していくことであろう。

さて。

最後に3の②、「己の経済力を知れ」というお話である。

上で偉そうに縷々書いてきたものの、恥ずかしながら私、シャネルのスーツを着たことがない。
また、ディオールのオートクチュールも着たことがない。

なので、ひょっとするとひょっとして、このおちびの私がシャネルのスーツを着てみたところ、
あらびっくり、ぴったりお似合い!
これこそシンデレラのガラスの靴ね!
といった事態が千が一、万が一、いや京が一起こらぬとも限らないのである。
※注;「京」(けい) 数の単位。兆の一万倍。10の16乗。(「大辞泉」より)

しかしだ。
私には、一揃えウン十万近くするスーツを誂える経済力はない。
また、よしんばそのような経済力があったとしてもそれだけの金を出して己が「服」を贖う気もない。

要は、私にとって「服」とはその程度のものなのだ。
冒頭に書いたとおり、私はお洒落が好きだ。よって、服も大好きだ。
しかし、(使い古された言い草だが)仮に私が億万長者であったとしても、そこまでお金を出してまで服を贖う気はない。

モノには適正価格があるというのが数少ない私の信念だ。
(信念というには余りにもくだらないが、まあ元々がくだらない人間なのでご寛恕を)
衣にも食にも住にも、適正価格というものはある。断固としてある。
その適正価格というものにはかなりの揺れ幅があることは認めるが、コストとベネフィットの力関係を慮るに、「適正」な価格は普通はそう常軌を逸したものとはならない筈である。
モノが常軌を逸した価格となるのは、
・買い手がベネフィットを過大評価しすぎて、或いは見栄故にベネフィットを過大評価したふりをしてコストを吊り上げる
・売り手が、その買い手の愚かさ(見栄)に乗じて、或いは共謀してコストを吊り上げる
ことに起因しよう。

我々(とまた、読者諸賢子と自分を一緒くたにしておりますが、どうぞお気を悪く召されるな)はこのような阿呆な論理には背を向け、あくまで「適正な」価格でモノを買うべきなのである。いや、買わねばならないのだ。

なんか頭の悪いアジ演説じみてきたが、まあ、つまるところ何が言いたいかといえば
「自分の経済力の許す範囲内でお洒落するのが本当のお洒落さんなのだ」
ということなのである。

以上、長々と(本当に長々と!)書いてきたが、纏めてみるとつまり、

「お洒落には、

・流行
・己の体型(品格)
・己の経済力

とまあ、沢山制限はあるのでありますが、
このような縛りの中で楽しむというのが実のところ真の楽しみなのでございますよ。
という訳で、そんな中、精一杯「衣」の楽しみを味わいましょうよ皆様」

といったことが言いたかったのでした。

…はーい、ここまで言葉数を費やしてそんなしょーもない結論かよ、とか筆者を責めない責めない。
何せ今日は病み上がりなんで、どーも失礼しました。
ではさよーならー。
(最低)

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