今日や昨日のニュース雑感(4)
(今日の記事はgoogle+に書き散らかした駄文を加筆修正したものです)
今流行の「脱ガラパゴス」論。
と思いきや、どこにも「論」はなかった。
ふーんあらそう。
だったらどうせいっちゅうねん、ちゅう話。
また、ここで例示されている事象はどこの国にでもある特異文化の羅列に過ぎず、日本固有のガラパゴス的風土(というものがあるとして)を説明するものではないであろう。
そもそも、グローバルスタンダード(笑)のメッカである(或いは、あった)オランダ、イギリスを例にとっても、チューリップや愛玩犬といった事物の品種改良等、マニアックな文化的事象が数多く存在していたのは周知のとおりである。
問題の核は、日本の「それら」が何故グローバルスタンダード(笑)にならないのか、ということなのだが、論者はそこまでは考えがお至りにならなかったようで遺憾の限りである。
しかしながら、実のところは日本発で、且つグローバルスタンダード(笑)になった事物は結構あるのは、これまた周知の事実である。
「ガラパゴス化」というネーミングは非常に強力、且つ魅力的で、名付けた人はセンスあるなあと思うのだが、そのインパクトに振り回されているだけ(或いは、そのインパクトに頼っているだけ)の言説を最近よく見かける。
この文章もまたその類であるとの誹りは免れまい。
※グローバルスタンダードに(笑)を入れてしまうのは筆者の癖です。何卒ご寛恕ください。
あれだけハジキ(死語?)が蔓延している国で、アルコール供したらイメージ低下を懸念する、とか正直感覚がよく分からない。
(それとこれとは話が違うよ、と言われそうだけど)
あと、ファストフードの「ブランド」イメージ、というのもピンとこない。
「パパ、ボク今日はチーズバーガーが食べたい!」
「ははは、そうかマイケル。じゃあパパはビッグバーガーにしちゃうぞー」
「あらパパ、最近ちょっと太りすぎだからビッグはやめておいたら?」
「それはママの料理が美味しいからだよ」
「もう、パパったら」
「あはは」
「あはは」
こんなイメージですか?分かりません。
建前としても、ファストフードに今時そんな「アメリカがアメリカだった頃のアメリカ」的なイメージ抱いてる消費者はいないでしょう。
とまれ、個人的にはファストフード店のアルコール導入、私は賛成である。
ハンバーガーとポテト食べつつ、ああここにコーラではなくビールがあれば…と何度思ったことだろう。
絶対売れますよ、ハンバーガー屋さんのビール。
懸念される諸問題については、牛丼チェーンみたくアルコール販売に時間制限を設けたり、身分証の提示を厳重に義務付けたりすることで或る程度解決するのではあるまいか。
あと、飲酒運転の懸念に関しては、アルコール販売店舗は都市部に限定し、ドライブスルーが主力の国道沿いの店舗には置かない、など棲み分けを徹底すればよいと思う。
批判精神に“共感” 魯迅作品「現在も国民の思想改造に有意義」77% 中国意識調査
一読して、
ふーん、中国の方は7割以上が魯迅がお好きなのか。
そりゃまあ国民的作家だし、日本人の9割が漱石好きだという位の話で別にニュースバリューないなあ。
と読み流しかけたのだが、設問を見てちと考えた。
だって、
「(魯迅は)現在も国民の思想改造に有意義だと思うか否か」
ですよ。
なんだか一昔前の中国ニュースを読んでいるみたいな気分になった。
そうか、かの国では未だに「思想改造」とか仰っているのか。
そして、かの国では未だに文学作品は国民の思想改造(勿論中共的にPCな)に資するものでなくばならないのか。
と思ったけど、この記事内には
「調査で「現在も国民の思想改造に有意義」と回答した8割近い人が、具体的にどのような「思想改造」を求めているかは示されていない」
とあり、ここら辺の書き方に何か含みがありそうな気もする。
その後には
「他方で、「作品内容は現代の中国人のプライドを傷つける」との批判や、「若者による中国共産党一党支配への批判に飛び火するのではないか」との警戒感もあり、昨年から一部の高校生向け国語教科書から魯迅作品が消え始めた」
などという記述がある。
前者はともかく後者(魯迅作品が中共批判となりうる可能性)に言及することにより、暗に記者はこの8割近くの賛同を得ている魯迅の「思想改造」の具体的な中身について、実は回答者は中共に親和的な改造ではなく、一層ラディカルな内容を孕む改造を想定しているのではないか、と示唆しているようにも思われる。
とはいえ、これは記者氏の推測(そして私の更なる推測)なので、そこまで深読みすることが的を得ているかは勿論定かではない。
案外、日本でも
「漱石は現在も国民の思想改造に有意義だと思うか否か」
なんて質問をさらっとしたら、漱石好きの人、及び漱石好きと言って置くことに何らかのバリューを見出す人なら普通に「はい」と答えそうな気もしますしね。
何はともあれ、未だかような支持を受け、またその政治的影響が期待(若しくは懸念)され続けているほどに魯迅先生は偉大な作家だということでしょう。
ただ、教科書から魯迅作品が消えているのにはどうやら他に理由がありそうだ。
たまたま見つけた2年ほど前の「レコードチャイナ」にはかような記事があった。
「近代文学の父」魯迅の作品が教科書から消えていく…原因は難解な文章?進学優先?―中国
要は
・文章、というか用いられている言葉、文体が難解
(中国語には詳しくないのだが簡体字への変遷等も影響あるのだろうか)
・時代背景複雑なため教えるのに時間がかかる→教える暇ない
(昨今の本邦の高校の世界史問題のようだ)
という理由で教科書への採用が減少している、ということであるらしい。
実情はかような現場の台所事情に依るところが大きいのではあるまいか。
(えー、オチはありません。申し訳ございません)
Child Resistanceという字面を見て、ふと子供の民兵が瞼に浮かんで暗い気分になったのは私だけですねそうですね。
さてこのライター規制自体は大変よいことだとは思うのだが、やはり色々問題はあるようだ。
まずはこの規制はあくまで「販売」の規制であり、お店などで無償で配る景品的扱いのライターは対象外であるらしい。
危険防止を目的とする規制であるのに、その適用が「どのように流通したか」を基準として決定される、というのはどうも理屈が分かりかねる。
いやいや取締が難しいではないか、と仰るのかもしれないが、それでは規制を流通の段階ではなく製造段階で行えばよいだけの話ではなかろうかと素人は考えるものである。
あと、これはこの規制とは直接には関係ないが、記事にあるようにライターの万全な回収システムが未だ構築されていないというのも問題だ。
「分解して金属部分は不燃物、プラスチック部分は可燃物」とか言ってたら、そりゃポイ捨ても増えようし、普通のごみに紛れさせてこっそり廃棄して結果火が出たり、なんて危険性も増そう。
せめてCR化するのと同時に(安全性には十分に留意して)素人にでも容易に分解、廃棄できる品を開発しては頂けまいか。
いや、いっそ使い捨てというのをやめて、ジッポみたく繰り返し使えるライターのみ販売するというのはどうだろうか。
使い込むほどに愛着も湧こうし、環境にも優しいしで一石二鳥だと思うのだが如何。
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