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新しい婚姻制度に家族制度を考えてみる。

(前書き1)本文章はgoogle+に書いたネタにちょいと手を入れたものです。既視感ありありの方はごめんやしや。
(前書き2)この主張はあくまで思考実験(殆ど妄想)です。私本人が是非ともこうしたい!と思っている訳ではありません。寧ろ逆です。

たまには机上の空論を語ってもいいじゃない にんげんだもの 
みつを

というコンセプトで書いた小文です。ご諒解下さい。
(どんなんや)
でははじめ。

今一番理想的な婚姻制度、ひいては家族制度は「妻問婚+母系大家族制」ではないかと愚考するものである。
(余談だけど、今「妻問婚」と変換したところ、「妻とイコン」と出てきて、うす暗いロシアの農家の中に、おっかさんとキリスト様のイコンが彷彿として佇んでいる図が目に浮かんだ。実にどうでもよい)

まず、何故妻問婚が理想的かというと、

1.母系継承は分かり易い(血統が明らか)
2.一対一の関係は継続し難い。ましてや個人主義が蔓延した現代をや

ということが挙げられる。

1.は、まあ説明不要ですね。
2.に関しては人によりけりではないか、ウチはそんなことないです!と反論を喰らいそうであるが、昨今の離婚率の増加傾向という事実により傍証はできそうである。

しかしこの形態には問題もある。
つまり、生まれた子の養育義務・責任が母系家族のみにかかってしまうのである。
核家族ベース(年老いた両親に母)のみの家庭では子が成長する環境としていささかバランスを欠くように思われるし、また経済的にも不安である。

故に私は、この妻問婚に「母系大家族制」をプラスすることを提唱したい。
具体的には、
1.一家の主は大刀自、つまり「祖母」とする
2.その下には「母」(「祖母」にとっての「娘」)、そして彼女の兄弟姉妹である叔母や叔父達がわらわらと乱れ暮らす
3.子の「父」はまた別の母系大家族の一員であり、母の元に時折通ってくる。
といった形態の構成を想定している。

この制度で期待できるメリットは以下の通りである。

1.子を大勢の人々の中で育てることができる
孤立した核家族の中での閉鎖された子育てのデメリットについては、既に多く叫ばれているところである。
おっちゃんおばちゃん、いとこにはとこといった多種多様な人間が混在する場で育てることは、社会性の醸成等、彼/彼女の人格形成上多くの面でプラスになること必定である。

2.母(女性)の社会参加の促進
大家族の中では、手の空いた誰かが子の面倒をみてくれることが期待できる。
故に、働き盛りの母親が仕事をはじめとした様々な社会活動に参加する道が拓かれることになる。

3.少子化の解消
上に同じく、皆で子の面倒をみてくれることにより子育てが容易となり、母親にかかる負担がぐんと減る。
となれば、ふーん、じゃいっちょ生んでみようかしらん。
二人目三人目もいいわよね。
と思う女性が増えるのではないかと思われる。

4.経済的である
小さな単位でばらばらと住むより、大勢で固まって住む方が断然経済効率がよいことはもとより自明の理である。
衣食住に関して考察すると、

1)衣:貸し借りやお下がりで賄える。
2)食:個々にちまちま作るより纏めて作った方が当然ながら安くつく。
3)住:大型消費財等は皆で使うため、購入は必要最低数で足りる。

という経済効果(節約効果だな、寧ろ)が期待できる。

尚、住居に関しては大家族という性質上規模の大きなものにならざるを得ないが、構成員もまた大勢存在するので、一人あたま分の負担住居費・維持費は現状の核家族のそれよりもかなり低減することは間違いない。

5.(今流行の)省エネである
4.の効果から必然的に導き出される利点である。

…とまあ、メリットはこんなものであろうか。

一方デメリットは何か、というと、個人意識ばかり育ってしまった現代人にかような集団生活はそぐわないのではないかということであろう。
(デメリット、というか予想される反論ですね)
私も大概近代的個人主義に毒された、端的にいうと我儘な人間なので、ここまで書いておいて大変なんではあるが、自分にはちょっと無理かもしれないと思う。
親類縁者同士の、近いが故のどろどろした関係というのも面倒くさいものだ。
「血族であるからこそ疎ましい」というのもよく分かる。

何かいい方策はないかと考えてみたが、せいぜい思いつくのは個人(或いは母子)毎にきっちり個室を設ける等、住環境での工夫くらいのものである。
しかしこれも工夫しすぎてプライヴェートな空間作りに重点を置き過ぎてしまうと、結局は元の木阿弥の核家族(家族じゃないから核ユニット、かな?)に舞い戻ってしまいそうだし、難しいものである。


とまれ、かような大きな問題はあるものの、この妻問婚/母系大家族制、前述の通りそれを上回るメリットがあると考えるものである。
けれどこんなことを提案したら最後、美しい慣習であり(なのかなあ)、及び開闢以来脈々と受け継がれてきた(それは違う)一夫一妻制を否定するとは何事だ、と正しい老若男女の皆様に怒られてしまうことは火を見るより明らかである。

また、倫理的バッシングとは別に、経済産業界もこぞって否を唱えるであろう。
(勿論、その「否」は倫理的隠れ蓑を纏った姿で展開するであろうが)
だって、消費単位が激減するんですよ。
消費単位は戦後この方大家族→核家族、そして個々人へと細分化され、それに従い大量の消費財が消費(なんかくどいな)されてきたのは周知の通りである。
大家族制は、そのトレンドに謂わば真っ向から逆行するものである。
経済界にとってこんな危険な思想はない。
長い目で見れば少子化解消が期待できる→消費人口が緩やかにではあるが増加する ことも期待できるのだが、ビジネスの世界というのは無時間モデルなので(内田樹先生のパクリ)「今、ここで」損失を被る事柄に関しては断固排除、反対するであろう。

という訳で母系大家族制、そしてその提唱者は哀れ闇に葬られるのであった。しゅん。

しかし、よもや個人主義の塊のような私がこんな事を(思考実験にせよ)考えるようになるとは思いもよらないことであった。
戦後日本がロールモデルとした個人(核家族も含む)を一単位とする謂わば「強者の」ライフプランは、高度経済成長期、バブル期といった、構成員皆が強者であった(ありえた)時代にはまことに適したものであった。
だが昨今の状況を鑑みるに、この「個人モデル」は、高齢化等による弱者扶助の必要性、世の様々なリソース不足(に対応するための「省エネ」、「節電」等)、そしてリスクの増大(失業率の増加等)に対抗するための相互扶助の必要性といった社会的要請の高まりにより、その限界を呈し始めているように思われる。

更に私達は今回の震災で、この世には個々人では到底太刀打ちできぬデインジャーが起こりうるという、よく考えてみればごくごく当たり前の事を改めて嫌というほど思い知らされた。
そして、かようなデインジャーについてお上は(全くといっては気の毒だが、殆ど)役に立たないということも。
さすれば我等か弱き小さな者共は、人間関係の軋轢というデメリットは覚悟の上でも寄り集まらざるを得ないのではあるまいか。

内田先生がかつてより終始一貫して小規模コミュニティの必要性を説かれ、恐らくその具現化として今秋(だったか)道場を開設されるというのは(内田ファンには)周知の事実である。
また、今東浩紀氏編集の『思想地図β2』を紐解いている最中なのだが、ここでもまた、収録されている様々なコンテンツに繰り返し「小さな/ローカルなコミュニティ」が好ましいもの、目指すべきものとして述べられているのが印象的であった。
編集長の東氏自身も(少しニュアンスは違うが)自ら包括的なコミュニティの構築を目指す、という事をgoogle+で書かれていましたしね。

だが、このようなコミュニティが一朝一夕に成立するとは正直考えにくい。
やはり人を束ね統率し、持続的な集団を形成するためには強力な求心力(カリスマ、宗教etc)が必要となろう。
単に頭で「集団となることの重要性」が必要だと思うから集まりました、では、よほどメンバーの尊敬を集めリーダーシップに満ち溢れた中心人物(つまりカリスマですな)が存在せぬ限り、若しくは強烈な思想(つまり宗教的な「何か」ですな)が存在せぬ限り、継続的且つソリッドなコミュニティを構築することは困難であると思う。

そこで一つ、手始めに「血族」という分かり易い求心要素で纏まってみるのは如何なものだろう、と愚考した次第である。

長々と書いてきましたが、という訳で、皆様もおひとつどうでしょ。女系大家族制。

【おまけ】
「女系大家族制」でぐぐったらこんなの見つけました。

こんなの

お伽噺レヴェルだけど、でもなんかいいなあ。
個人主義にどっぷり首までつかった私はこの歳で今から飛び込め、と言われれば泣いて拒否するけど、生まれた時からずっとこの形態、というのはさぞかし暮らしよいに違いない。

憧れるくらい いいじゃない にんげんだもの 
みつを

#このオチ(逃げ?)、気に入ったな。

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