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ハックルベリー・フィンのアメリカ―「自由」はどこにあるか(補足)



先日の感想に若干の追加をば。

ハック、そしてその冒険は「自然(に於ける全き自由な生)と秩序との間の宙ぶらりん状態」を的確に描いたもので、それが故に主人公、ハックはアメリカ人のプロトタイプなりえるのだ、というのが筆者の主張である。

本新書を読み終えた際、私には何やらこの宙ぶらりん、即ちサスペンス状態の心理が非常に馴染み深いものであるように感じられた。
ごく普通のまっとうな大和民族である私が何故この「状態」に既視感を感じたのであろうか。

つらつら考えていると、ふと頭の中に一つの書物の名が閃いた。
それはなにあろう、『大きな森の小さな家』シリーズである。

(以下、うろ覚えで書いていますのでディテールに間違いがあるかもしれません)

このシリーズの主人公、ローラの「とうさん」は根っからの開拓者である。
常に、手つかずの自然が残り自らの力で生きてゆける(と思われる)「西部」、つまりフロンティアへ向かいたいという願望を抱いている。
転じて配偶者の「かあさん」の望みは娘たちに教育をつけ、ゆくゆくは嘗ての自分と同じ教師にすることである。
当然、二人の思いは水と油となる。

とうさんの血をより濃く引くローラは彼と同じく、西に行きたくて仕方がない。
しかし、彼らの旅は学校のある街の近くの開拓地に居を構えることで終焉を迎える。
ローラはある日、両親に何故もっと獲物が多くて土地も肥沃であろう西に向かわないのか、と尋ねる。
それに対しとうさんは、

「わしだって本当は西部に行きたいさ。
だけど、わしはかあさんと結婚するとき、必ず将来生まれてくる子供たちを学校に通わせると約束したんだよ。
だから学校のないところには住まないんだ」

と答える。
つまり、「学校のある街の近くの開拓地」は水と油であるとうさんとかあさんの妥協点なのである。

この夫婦こそ、当に上記「自然」と「秩序」のサスペンス状態を如実に体現するものなのではなかろうか。
恐らく、彼らのように毎日直に自然と対峙していた当時の開拓者達は常に、そしてリアルにこのサスペンス状態を実感していたことであろう。

そして、彼らの生きる現実は、ハックのように甘いハッピーエンドが待ち受けている「おはなし」ではなかった。
とうさんは秩序への志向を強く抱くかあさんに妥協しつつ、限定的にとはいえ独立独歩の「開拓者」という生き方を貫くのだが、蝗の大群や日照り、猛吹雪といった苛烈な自然に弄ばれ、最後には尾羽打ち枯らす、とまではいかずとも零落の一歩手前という状態でその生を終えることになる。
尤も、この結末はシリーズ中では描かれることはないのだが…
小説の中でも、そして現実の世界でも自然の中で独立して生きる自由人、というヴィジョンは所詮ヴィジョンにしか過ぎないようである。

しかし、ヴィジョンであるからが故にその「像」は光り輝く。
ご存じの通り、ハックと同じく『大きな森』もまたアメリカで広く長く読み継がれている作品であるが、その所以はこの作品が西部の自然の中で自由に生きる姿という、サスペンドされたアメリカ人にとっての永遠の憧れ、輝けるヴィジョンを描き出しているからなのだろう。

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