フィジーについてのあれやこれや。(歴史編1)
こんにちは。
来週はウィークデイがたったの3日なことに加え、そのウィークデイの間、先生はずっと他大学での集中講義に行かれるので、ゆっくりのびのび仕事ができそうで密かに大喜びしているぴこらです。
教授秘書のお仕事というものは、
(特に色んなプロジェクトを抱えているうちの先生の下で働いている場合)
各種手続きや書類作成、他先生方への連絡など先生とは独自に動かねばならない類のものが非常に多いのである。
最近、そういった種類の仕事が増えてきたのでしっかり集中してこなそう!
と思っていたのであるが、厄介なことに敵は内にいた。
そう、その正体は誰あろう、何故だか知らないがこの授業がない夏休み期間であっても
きっかり10時には研究室にお越しになる我らが先生である。
「ぴこらさんぴこらさん、どこどこに電話かけてー」
「ぴこらさんぴこらさん、あのファイル隠したでしょ?どこいったか探してー」
#この「隠したでしょ?」は先生の口癖である。
そんな一文の得にもならんもん隠すかっちゅうねん。
「ぴこらさんぴこらさん、なんだか眠くなってきましたからコーヒー入れてー」
「ぴこらさんぴこらさん、そういえばこの前ね(以下雑談)」
そのうち、隙をみて椅子に括り付けてガムテープでお口を塞いじまおうか、と画策する今日この頃である。
ま、何はともあれ、前述の如く来週は3日とも先生がいらっしゃらないので少しは仕事が捗りそうである。
#ヘンな話だけど。
さて。
来月10月1日より、私は遅めの夏休みをとって南太平洋はフィジーに行くのである。
予約した時期こそ早いのだが、実のところ私はフィジーについて殆ど何も知らない。
「…へえ、ぴこらさんフィジーに行くんだ。フィジーってどこにあんの?」
という問いくらいにならば答えられるのだが、
(簡単な絵をかいて、ここがオーストラリアで、ここが南米大陸で、…そうそうここらへんの南太平洋に浮かんでいる小さい島ですよ、といった程度だが)
よく考えてみりゃ、地理以外の詳しいことはぜんぜん知らないのである。
それだけならばまだしも、気づけば己の旅行の出発時刻に所要時間、旅行全体のスケジュールすら確認していなかった。
これはいけない。
年に一度の南の島へのHIDEAWAYなのに、出発日が迫ってきた今になってさえもこんなに無関心ではだめなのではなかろうか。
という訳で、本日早速「地球の歩き方」を買ってきた。
#それすら今まで買っていなかったわけで。
他にもネットでちょいちょいと調べてみたところ、少しはフィジーのことが分かってきた。
なので、今日の日記のお題は標題通り
「フィジーについてのあれやこれや(歴史編)」
である。
##ここまでは長い長い前ふりでした。筆者の癖なのでどうもすみません。
ちなみに、何故「歴史編」なのかというと、最近南太平洋の歴史の本を読んでいたのと、
調べていくうちに近現代史がなかなか面白いなあ、と思ったからである。
フィジーに人が住みつきはじめたのは紀元前1300年頃とされる。
その証左となるのは、西は東南アジア島嶼部より東はトンガ・サモアまできれいな水平分布が認められるラピタ土器である。
この土器を携えて渡ってきたのは、所謂ラピタ人(東南アジアから渡ってきたオーストロネシア語を話す人々、ということ位しか明らかではないらしい。人種的にはモンゴロイドであるそうな)である。
※ここらへん、ちょいちょい調べてみましたがどうも情報が錯綜していて門外漢には理解できていません。詳しい方おられましたらご教示願います。
それからぐっと時が下り、オランダの航海探検家アベル・タスマン(タスマニア島にその名を残す)がフィジーを「発見」したのは1643年のこと。
次にこの地に辿り着いたのはかの有名なジェームズ・クックである。
しかしながら、彼は1774年に南ラウ諸島のヴァトア島に上陸したものの、フィジー全土を踏査するまでには至らなかった。
初めてフィジーの大部分を確認したのはウイリアム・ブライである。
この名前に聞き覚えはないだろうか。
そう、映画化されたことでも有名な「バウンティ号の反乱」にて放逐された船長さんである。
1787年、ブライはバウンティ号の船長に任じられた。
その航海の任務は、タヒチ島から西インド諸島へパンの木を輸送することであった。
(因みに何のためにパンの木を輸送したのかというと、西インドの奴隷の食料にするつもりだったのだそうな)
タヒチでパンの木を入手し、一路西インド諸島へ向かっていたバウンティ号にて突然水兵どもが反乱を起こしたのは1789年4月28日のことである。
原因については、ブライが乗員の飲み水よりもパンノキに与える水を優先しただとか、規律が峻厳に過ぎただとか、様々な憶測がなされているが明らかではない。
(しかしこの人、後にニューサウスウェールズの総督に任命されるのであるが、そこでも土地交付やラム酒醸造、交易などをやたらと厳しく取り締まったために「ラム酒の反乱」が起こってまたもや幽閉されるという羽目に陥っている。
その後、なんとか解放された後も、行く先々でなにかと揉め事を起こしたらしい。
彼の末路を見ると、なんとなくバウンティ号の反乱の原因がわからなくもない)
ま、そんなこんなで、この事件でブライは命こそ奪われることはなかったが、彼に味方した乗組員18名とと共に小さなボートで太平洋のど真ん中に放り出されるという憂き目をみた。
しかしながらこの一団はなかなか根性があって、えっさほっさと4000海里を48日かけて踏破(航破?)して最後にはティモール島に辿り着くのである。
この航海中、彼らはフィジーの主な島々を確認し、地図をも作成している。
彼の後、キャプテン・ウィルソンなど数人の探険家によって、全てのフィジー諸島が確認されることになる。
しかし、直接に入植、宣教師の到来といった形でヨーロッパの影響が彼の地に及ぼされるのはもう少し時が下った19世紀初頭である。
…
すいません。これだけ書いただけなのにもうへとへとになりました。
続きはまた後ほど書かせていただきます。
…って、もう(午前)4時前じゃん!
わー、また連休中に昼夜が逆転しちゃうよう…
| 固定リンク
「旅行・地域」カテゴリの記事
- 有馬に行ってきたであります。①(微妙に駄洒落)(2006.01.30)
- フィジーについてのあれやこれや。(歴史編2)(2005.09.19)
- フィジーについてのあれやこれや。(歴史編1)(2005.09.17)
最近のコメント