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フィジーについてのあれやこれや。(歴史編2)

こんにちは、3回表にも関わらず7-0と大きく突き放されてとっても切ないぴこらです。
あ、言い忘れましたが勿論阪神ー中日戦のことね。
ブログの更新を試合開始の2時までに終わらせた私の努力はどうなるのですか。
という訳で、試合は横目で見つつさらにブログを更新させることにします。
#つまりは暇人ということで。

今日のお題は、前々々回(だっけ)に引き続き
「フィジーの歴史について」である。

白檀の発見を契機として、ヨーロッパ人がフィジーに入植を始めたのは19世紀始めのこと。
1804年にはオヴァラウという小島に最初の居留地が建設された。
当初フィジーはアメリカの影響力の下にあったので、入植者はマサチューセッツ州はセイラムという土地の商人が多かったそうだ。

いったい、白人が太平洋諸島にひとたび接触・入植をはじめると、殆どの島々は同じような運命を辿ることとなる。
すなわち、
1.白人が持ち込んだ病気に拠る人口減少
2.これまた白人が持ち込んだ銃火器の導入に拠る首長間の抗争の激化
→その結果、強力な首長が出現
3.
・自らの統治力を確固としたものにしたい首長
・布教するにあたっては、統一政権が存在すれば容易であるという宣教師達の思惑
・太平洋諸島に影響力を及ぼしたいヨーロッパ諸国
→三者の思惑が一致してキリスト教に改宗した首長による統一政権発足
4.結果、ヨーロッパ諸国の統治下(或いは影響下)に入る

といった動きである。

我らがフィジーもまた同じ。
尤も、フィジーの場合は隣国トンガの外圧という要素もまた見逃せない。

トンガの場合、キリスト教に改宗したジョージ・トゥポウ1世が聖戦の名の下に1852年にトンガ全体を制圧した。
ヨーロッパ諸国より立憲君主制、また植民地化という手法を学んだトゥポウ1世はまずその触手をフィジーに伸ばす。
この時期のフィジーは、6つの王国が入り乱れての凄まじい抗争がバウ族のザコンバウ王による武力的制圧という形で終焉を迎えたところであった。
そこへ現れたのは前述のトゥポウ1世。
彼は自らフィジーに赴き、ザコンバウに自ら同様キリスト教に改宗することを勧めた。
その際の表向きのお勧めポイントは、恐らく、(自らの体験を基にした)キリスト教による統治の容易さ、改宗することによってヨーロッパ諸国に対して武力等の援助の求めを得やすくなることなどではなかったかと思われる。
(この件、どこにも記述がなかったのであくまで私の推測です)

しかしトゥポウ1世の狙いは別にあった。
即ち、首長をキリスト教化→フィジー全体をキリスト教化することにより、先んじてキリスト教化したトンガの影響力をフィジーに及ぼし、最終的にはフィジーを併合してしまおうというものであった。
実際、ザコンバウの改宗に成功した彼は、この後キリスト教徒保護を名目として数次にわたりフィジーへの介入を行っている。
しかしながら、結局アメリカやイギリスの反発、及びフィジーの抵抗も相まって彼の野望は虚しく潰えた。

この時期、さらにイギリスもフィジーに触手を伸ばす。
1858年、イギリスは彼の地に領事を任命した。
このままいくとアメリカとイギリスはあわやフィジーを巡って一発触発!
したのかもしれないが、アメリカは1861年から勃発した南北戦争で弱体化してフィジーどころではなくなってしまった。
以後、フィジーはイギリスの影響下に入ることになる。

1871年、ザコンバウは全フィジーの統一に成功し、君主制憲法を採択してフィジー国王となった。
しかし、この時既に政治の実権は数人のイギリス人に握られ、また議会と行政府は対立しており、ザコンバウが統一国家としてフィジーを運営することは事実上不可能であった。
窮したザコンバウはドイツに保護を求めるが拒否される。
結局、1874年10月10日にザコンバウは領土をイギリスに割譲。
フィジーは正式にイギリス植民地となった。

さて、植民地化される前から、他の島々の御多分に洩れず、フィジーでも様々な大農園の経営が試みられていた。
南北戦争で綿の不足が深刻になった頃には綿花の栽培が盛んに行われ、かなりの収益を上げたが、戦争が終わり好景気が過ぎ去った後にはコーヒーやカカオの栽培が試されるなどと、試行錯誤が続いていたらしい。
しかし、1872年にサトウキビの栽培が始まると、瞬く間にフィジー全土はサトウキビプランテーションと化することになる。
そこで問題となったのは労働力である。
地元フィジー人は長年に渡る内戦や疫病のお陰で人口そのものが減少していたし、そもそも、性情がサトウキビ栽培やサトウ精製の労働に全く向いておらず労働力としては殆ど期待できなかった。
そこでイギリス政府はインド政府と交渉のすえ、インドから契約労働者を導入するに至った。
以後、1879年の導入開始から1916年の廃止までに実に6万人ものインド人がフィジー入りすることになる。
そのうち、実に半分の人々は契約終了後もフィジーに留まることを選んだため、制度廃止後もインド系人は増え続け、今現在もフィジーの人口構成のうち43.5%を占めるに至っている。(土着系フィジー人は50.7%)
このことが現在に至る政治紛争の種となっている。(後述)

このようにフィジーはイギリスの重要なサトウ・プランテーションとなったが、同時に太平洋の交通路の交差する地点に位置することから戦略的にも非常に重要な意味を持つに至った。
1939年、第二次世界大戦が勃発すると同時にイギリスはフィジーの自衛隊を増員、拡張している。

2年後の1941年、太平洋戦争が勃発。
南太平洋にも戦線が拡大すると、フィジーも連合国側の一員としてソロモン諸島を中心に戦線に参加している。

大戦が終わった1945年から後も、引き続きイギリスの支配は続いたが1970年、ついにフィジー自治国としてイギリスから独立を果たし、30番目のイギリス連邦加盟国となる。
初代首相にはフィジー人ラトゥ・サー・カミセセ・ラマが就任。
1972年には初の総選挙が行われ、フィジー人政党の「同盟党」が政権を握った。

さて、ここまではめでたしめでたしなお話なのであるが…
ここから前述した土着フィジー人と移民インド人の政治的確執が始まるのである。

それはまた次回書かせていただくことにします。
(肩凝りました)

#しかし、フィジーの歴史ってネットを調べてもあまり出てこないものですね。
今回はかなり手こずりました…

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