昨今の若者の恋愛事情。(なのかなあ)

今春、久方ぶりにうちの研究室にニューフェイスが登場した。
いや、正しくは「日本人の」ニューフェイスと言うべきかもしれない。
#うちは兎に角とつくにの方が多い研究室なのだ。
3月で巣立っていった菊川さん(仮名)の代わりにやってきた彼女、名をこまちちゃん(勿論仮名)という。
これからちょこちょこ登場するかもしれないので、以後お見知りおき頂ければ幸いである。

さてこのこまちちゃんであるが、一言で言うと「ぶっとび娘」である。
死語かもしれぬが、これ以上彼女を現すのにぴったりな言葉を思いつかない。
どれくらいぶっとんでいるかというと…

・お偉いがたが並みいるレセプションにて。
お偉いがスピーチしている間、出席者全員が直立して拝聴している中一人ひたすら立食プレートのフルーツバスケットの中のイチゴだけを手づかみで貪り食べていた

・彼女の余りのゴーイングマイウェイぶりを心配した先輩の男の子が、他の研究仲間を紹介してあげようとランチ会を企画した。
ところが彼と共にその会場に向かう途中、猫をみつけ

「わー、にゃんこだー♪」

とにゃんこを追いかけそのまま遁走。
先輩男子はそのあと仲間に弁明するのに四苦八苦したそうな。

・研究室前廊下で豪快にすっころぶ(しかも一度や二度ではない)
その度にこの世の終わりのような悲鳴を上げるので、我々のみならず他の研究室の人も皆すわ何事かと廊下に飛び出していくのである。

とまあ、これらはまだまだ所業の氷山の一角ではあるが、これだけでも彼女の大物ぶりというかなんというかがお分かり頂けるかと思う。
(某大混声合唱団OB/OGの方々へ私信:
私は彼女を見るたびに某S子さんを思い出します。
こういえば彼女、こまちちゃんの人となりが分かって頂けるのではないかと愚考する次第であります)

とまれ。
先日、そんな彼女、及び研究室メンバーとのんびりお茶をする機会があった。
話はいつぞやガールズトークにありがちな恋愛話になったのだが…

「あのですね。
私、恋愛関係でうじうじ悩んだりするの、嫌いなんですよ」

突然こまちちゃんがそんなことを言い出した。

「う、うん。
だれでも本当は嫌いだと思うけど、そうはいってもなかなかうまくいかないもんなんじゃない?」

「いえ。私はどうしたっていつもはっきりさせます」

「ふーん。例えば?」

「例えばですね。
私、ちょっと前に好きな人がいたんです」

「ふむふむ」

「でも、相手は私のことを好きではなかったんです」

「ふーむ」

「で、はやくケリつけたくって、家に乗り込んでいったんです」

「…」

「丁度旅行に行った後で、土産があったんでそれ持っていったんです。
ドアベル鳴らしたけど出てこないんで、ドアどんどん叩いて

『私!こまちやねんけど!
いるんでしょ?ちょっと用事あるから出てきて!』

っていいました」

「……」

「で、出てきたんで家に上がりこみました」

「…アポはとってたの?」

「いえ!」

「…あっそう」

「で、

『土産だ!食え!』

っていってまずお土産を渡しました」

「…うん」

「で、おもむろに

『ちょっと話あんねんけど』

と切り出しました」

「うんうん」(←呆気にとられつつ興に乗ってきた)

その後、こまちちゃんによると以下のようなやりとりが繰り広げられたらしい。

「私さあ、好きな人いるんやけど」

「…うん」

「それさあ、あんたやねんけど」

「…うん。うすうす気づいてた」

「でもさあ、あんた私に気はないやろ?」

「…ごめん」

「そしたらさあ、ちゃっちゃとここで振って」

「…?」

「私もいつまでも引き摺るの嫌やねん。
まどろっこしいから、今はっきり振ってや」

「…え。
えーっと…
…じゃあ、ごめんなさい」

「よっしゃ。
そしたら今からあんたと私は友達な」

「…うん」

「でさ、話変わるねんけど今度の授業の課題やねんけどさあー(以下略)」

とまあ、それからは何事もなかったのように雑談を続けたのだそうな。

「…で、こまちちゃん。
それからその彼とはどうなったん?」

「えー?
勿論、今でもいい友達ですよ♪」

「…そっかあー」

「そういえば先日、逆のパターンもありました」

「逆?」

「ええ。
私、コクられたんですよ」

「ええー?すごいじゃない」

「けどどうしても友達としか思えないんですよねえ、そいつは。
コクられた時には『暫く考えさせてほしい』っていったんですけど、考えた結果やっぱり友達としてしか付き合えないなあと思ったんです」

「そっか。じゃあしょうがないね」

「でもそいつ、コクってから一向に私の前に現れないんです」

「…はあ」

「考えた結果を私に聞くわけでもなし」

「…それは、聞くのが怖いんだろうねえ」

「でもね。
こっちはなんかまどろっこしくてイライラしてたんですよ。
で、私、そいつを呼び出したんです」

「…どこに?」

「学校にです」

「そっか。一瞬体育館の裏かなんかかと思っちゃった」

「へ?なんでですか?」

「いえいえなんでもありません。
で、彼は来たの?」

「はい来ました。
『こまちさんから声かけてきてくれるなんて…』とかいってました」

「うーん、そやつもコクっといてちょっとヘタレやね」

「で、私こういったんです。

『私、あんたとは付き合われへんけど友達としてやったら付き合ってもええと思ってる。
でも、今みたいに私を避けるんやったら友達としても付き合われへんわ。
付き合い自体を0にするんか、それともいい友達として付き合っていくんか、今どっちか返事してんか』

って」

「なかなかオトコマエやね」

「それで、奴は

『じゃ、じゃあ友達としてお願いします…』

といいました」

「こっちはなかなかヘタレやね」

「でも彼とは今すっごくいい友達です♪」

「…それはよかったねえ…」

さて。
こういう恋愛事情、今の若人では当たり前の話なのか、はたまた彼女のパーソナリティに依る特殊なものなのかは私には判断しかねる。
勿論、こまちちゃんもこういう口調でさばさばした女を演出しつつ、その実心中ではいろいろ思い悩んではいるのだろうが、にしてもここまで相手に対してさばさばできるというのは大したものだと思う。

しかし、逆に言うとここまでさばさばできるというのは、彼女がまだ本物の恋をしていないからなのかもしれない。
命短し、恋せよ乙女。
まだ若いこまちちゃんには、これからどんどんいい恋をして頂きたいと思う。
おばちゃんはいつでも相談にのったげるよ。うふ。
#こういう話、大好物です。
##なんせおばちゃんだし。

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枢密院議長の日記

「一読茫然」。
墨痕淋漓、講談社文庫のぶっとい腰帯の裏に踊る文字に惹かれた。
同じ腰帯の表には、

「世界最長の日記」

という言葉もある。
(残念ながら正式に認められたものではなさそうだが)

この枢密院議長こと、倉富勇三郎は兎に角日記魔、記録魔であったらしい。
日記を書き綴った年数は26年間、巻数は297冊に及ぶという。

しかし、この本は彼の日記の全てに触れたものではない。
(まあ当たり前っちゃ当たり前だろう)
著者は読書会を結成し、この日記に7年間ほど取り組んだとのことであるが、それでも精読できたのは大正10年~11年の2年間のものだけだという。
それだけ分量が多かったということもあるようだが、なんせかの議長、凄まじい悪筆だったらしい。
なんでも、彼の甥っ子にあたる広津和郎もこの倉富日記を読破しようとしたらしいが、やはりその量と悪筆ぶりに辟易し挫折してしまったのだという。
あの膨大な「松川事件」と取っ組みあった広津ですら途中で放り出す日記、2年間分だけとはいえ読み通したというのはかなりの難事であったと思われる。

さて。
新書にしては分厚いこの一冊を読み終えた感想を一言で言うと、

「この人、実にノーマルな日記書きだな」

ということである。

著者は日記上のエピソードから垣間見える倉富の並外れた謹直さ、記録魔ぶりを殊更に書きたて、呆れたり驚いたりしてみせる。
しかし、残念ながら私はさほど呆れも驚きもしなかった。

例えば倉富の日記には当然ながらそこらここらに重大事件の周辺がさりげなく書きとめられているのだが、その記述の核心の周辺には常に贅肉の如く、延々と関係のない雑談が書き連ねられている。
それに対し、筆者はいやあじいさんいつもながら冗長だねえ、というような感想を頻りに書いておられるのだが、私には全く冗長とも蛇足とも思えなかった。
だって、日記ってそんなもんですよ。

また、この日記には、上のようなオフィシャルな記述とは別に、倉富夫人の買い物に付き合い、気に入ったものがなかったからまた出直す、なんていう日常の細かい出来事を記したものも多いのだが、筆者はこれに対してもじいさんったらまたそんな細かいこと書いちゃって、なんていうニュアンスの感想を書いている。
(勿論これは揶揄ではなく、愛情の発露なのだろうが)
しかし、これまた同じく私には細かすぎるとは思えなかった。
だって、日記ってそんn(以下略)

この、

「どんな細かいことでも、枝葉の事実でも書きとめておきたい」

心持、多寡はあれども日記書きには多分に共通するものではあるまいか。
とある重大任務遂行のため朝鮮に渡った際にはさしもの彼も日記をつけることができず、後日日を追ってメモのような記述を残すのみに留まったそうだが、その記録できなかった間はさぞかし苛立ち、一刻でも早くペンを取りたい気持ちでいっぱいであったことであろう。
彼の中では「書」は「衣食住」に次ぐ、いや寧ろ筆頭にでも列すべき生の必須事項であったに違いない。
この点、書き始めたらやめられないとまらない性分の不肖私にも心から共感できるのである。
勿論、枢密院議長様と己の身を引き比べるなど不敬も甚だしいことは百も承知ではあるが。

不敬ついでに、読破してふと思いついたことをもう一つ書いておこう。
論理に発想の飛躍があることは百も承知ではあるが、つまり彼は







「大正のしょこたん」






であったのではなかろうか。

しょこたんも先日、一日に200何回ブログを更新したそうですしね。
広く他者に向けて自らの記述を発信するブログと密かに書き綴る日記では性質が全く異なるではないかと怒られそうだが(いや、本当は恐らくもっと別のニュアンスで怒られそうだが)、いやいや、「ものに書く」以上他者なる読み手を意識しない文章などといったものは存在しない。
仮に倉富が一切の日記を非公開にする意志を持っていたとしても、である。
西洋のどっかの偉い文豪さんは昔、完全なる独白を書こうとしたら紙はペンの下から燃え上がるであろう、なんてことを書き残されたそうだが、全く然りである。
とまれ、しょこたんの例えはちと極端に過ぎたが、兎に角記録したい!書き綴りたい!という欲求は世にはびこるブロガーと通じるものがあり、さほど特殊なものではないように思うのである。

以上、日記や記録を書く人の心理から倉富日記を見てきたが、書かれている内容や情報は大正という時代、そして当時の皇室や皇族の様子を生生しく伝えるもので、日記という性格上情報が断片的且つ一方的なきらいがあるとは雖も非常に興味深く楽しく読むことができた。
日記の解説、及び抽出方法に若干粗い部分があり、時々海苔の中の砂を噛み当てるような気分になることもあったが、事実自体のユニークさを損なうようなレヴェルのものではない。
かの時代に興味をお持ちの方、そして人様の日記を読むのが好きな方には一読をお勧めする。
「一読茫然」とまではいきませんが、「一読ニヤリ」ぐらいはできますぜ。

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要は、気に食わないらしい。

いよいよ到来、セールシーズン。
世のご多分に洩れず、私もちょこちょこ買い物をしている。

今回は大手ネットショップのセールにも参戦した。
買ってみたのはちょっと派手なワンピース。
パソコンで見た時には可愛らしく思えたのだが、いざ届いて試着してみると、残念ながら若干私好みではなかった。
どうしよっかなあ、これ。
返品すっかなあ。

等と鏡の前で悩んでいたら、母がやってきた。
#さあ、なにか嫌な予感がしますよ。

母は私を一目見るなり、こんな話を始めた。

「あのさ。
私、昔昔のOL時代、上司にお花見に連れて行ってもらったのね」

「…はあ」

「で、その帰り、ちょっと場末のバーに連れて行かれたのね」

「ほう」

「でさ、そこに女の子がいるのよ」

「まあいるでしょうね」

「それがまた、どぎつい化粧の下品な女の子でさ」

「…また酷い言い様ですなあ」

「しかもその子、私と同い年だとかいうのよねえ。
当時はおぼこかったから、そりゃもうショックだったわねえ」

「ふーん」

「でさ」

「はい?」

「その子、











あんたが今着てるみたいなワンピース着てたわ」












返品することにしました
















てか、前置き長い。母。

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江戸の料理史―料理本と料理文化

本書は、中世から江戸期にかけての料理書を核に据え、以って当時の料理文化を考察するものである。

しかし、この料理書の解説部分、時として門外漢には非常に歯痒く感じられた。
門外漢としては料理書に何が書かれているかこそが気になるのだが、その内容には殆ど触れられず(勿論例外もあるが)、編んだ人物、時代、編まれた目的に性格といった要素の紹介に終始しているきらいがあり、
きいいっ。
だから、この本にはつまり一体どんな料理が載っているのよう!
と何度かいらいらさせられた。
勿論、それらの要素も重要ではあるし料理文化を語る上で欠かせないのは重々承知ではあるのだが、口腹の徒はやはり食そのものに興味深々なのである。
著者には他に、『江戸の食生活』なる著書があるらしい。
口腹の徒には、どちらかといえば此方の方が向いているのかもしれないな、とも思った。

とまあそれはあくまで僅瑕であり、その他は十分に楽しめる本であった。
詳しくは羅列せねど、江戸期の料理、料理人、そして料理屋のことなど、鬼平ものなど歴史小説を読んだだけでは分からぬディテールにつき色々と蒙を啓かせて頂いた。
今美味しい和食が頂けるのもかような先人達の挑戦、吟味、切磋琢磨があってのこと。
かの時代の先駆者たちに感謝感謝である。

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バッグフェチ。

前回の記事で、

「私は人様の顔以外のディテールを観察してしまう」

なんてことを書いたのだが、その中でもガンガン見、且つ観察してしまうアイテムはなにあろう、バッグなのだ。
今出回っている名の知れたブランドのバッグは大抵脳内にインプットされている。
ファッション雑誌などのオサレメディアには最近全くもって縁がないのに、なんでまたこんな無駄な(?)知識を蓄えているのか自分でもよく分からない。
これ即ち、フェチであることの証であろうか。

また、ブランド物以外でも気になるバッグを持っている人を見かけるとついつい目で追ってしまう。

先日、常日頃からどこのバッグか分からぬが素敵なバッグを持っておられるなあと思っていた合唱団のお人に思い切って声をかけてみた。
(因みに、この人とお話しするのは確か初めてか二回目くらいだったように思う)

「あ、あの。そのバッグ、どこのですか…?」

「ああこれ、○○(一応有名処)のなんだけど、バーゲン品だったのよねえ」

「そ、そうですか…バーゲン品なんですね。
うーん、残念」

「なんだったら私のお古、プレミアつけて売るよ~?」

「いやー、買っちゃおうかなあ。あはは」

とまあこうやって仲良くなる、こともある。

しかし、やはり全くの見ず知らずの人となるとそうはいかない。
あるとき、カフェで私の大好きな鳥獣戯画のバッグを持っているおばさまと隣り合わせになり、えー、それどこで手に入れられたのか聞きたい!と強く思ったのだが、この時はさしもの私も声をかけることはできなかった。
え?それくらい聞けるでしょ?
なんて言う勿れ。
なんせこちとらシャイガールなのだ。
#大事なことなので、前回の記事に引き続き二回言いました。
##ええ、まだ言ってましたよ。

なので、その時はかのバッグがどこで買えるのか分からずじまいだったのだが、何せ欲しいものに対しては執念深く、且つツキがある人間なので、別の機会に京都のお店で目出度く見つけ出したのであった。

とまれ。
私がこれほどまでにバッグというアイテムに執着してしまう、その理由は何なのだろう。

勿論、自分が単にバッグ好きだからというのは一つの、そして主たる要因である。
しかし、店売りのもののみならず、他人の持っているバッグまでもが異様に気になってしまうというのには何か他にも原因がありそうである。
分析してみるに、それはバッグというものが

1.ある程度の大きさがあって
2.中立的に持ち主のセンスを見定められるアイテム

だからなのではないか、と愚考するのである。

とはいってもなんのことやら私ならざる読者諸賢氏にはお分かりにならないと思うので、以下注釈をさせて頂く。

まず第一の「ある程度の大きさ」であるが、これはつまり

「通りすがりの人でもさっと観察できるくらいの大きさ」

というくらいの意味である。
あんまり小さい持ち物だとそもそも眺めることすらできないということは首肯頂けるであろう。

そして第二の「中立的にセンスを見定められる」というココロは、

「持ち主の外観、体形に関わりなくその人のセンスを見定められる」

という意なのである。
このレトリック(なのか?)、対立概念として「衣服」を念頭に置いているというのはお分かり頂けるかと思う。
ご承知の通り、衣服というものは如実に着る人のセンスを現すものではあるが、躰に直接身につけるというその性質が故に、他者は彼の人が身につけた衣服を純粋に「衣服そのもの」としてのみ認識することはなく、ほぼ例外なくその下の生の躰とワンセットで認識、判断するのである。


えーい。
ぶっちゃけていってしまえば、

おんなじユニクロのTシャツでも、同僚元CAのれんちゃん(身長165cmのスレンダー)と私(身長148cmのちんちくりん)とが着たら月とすっぽん、ピンからキリ、猫に小判(これは違いますね)ということである。
#ええ、自虐的ですとも。

しかし。
センスの判断基準がバッグとなれば話は違う。
確かに持っている人間にも目が行ってしまうことはあるだろうが、あくまでバッグだけに注目すれば「中立的に」その人のセンスというものを見定めることができる。

恐らく、ここらへんに私がバッグ好きで人様のバッグをつらつら眺めてしまう理由があるのではないかと思うのである。

なので。
私の周囲の皆様に於かれましては、バッグを新調なされた際、手元付近に怪しい視線を感じられても

「ああ、あのバカまたなんか見てるわ」

とスルー下さいますようお願いいたします。
はい、見ていますよ。まじまじと。
じぃぃぃぃっ。

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顔が覚えられない。

いやー。
覚えられないんですよねえ、人の顔。
それもかなり洒落にならないレヴェルで。

例えば、私は今年からとあるNPOを立ち上げたのだが
(勿論理事長は根後先生だが、実質的な事務処理に手続きは全て私一人で行った)、
このNPOの会計と税理を見て頂くため、先月からとある税理士さんにお世話になっている。
この方とは既に3度ほどお会いして、話も結構盛り上がったりなんかしているのだが、







まだ彼の顔を覚えていません








どうです、かなりの重症でしょう。

…と、この話は弊ブログ、若しくはこのブログの前身のホームページでご紹介したように記憶するが、最近この問題について新しい知見を得たので少し追記しようと思う。
#何を他人事のように。

かように人様の顔が覚えられない私なのだが、顔以外のディテールはものっすごいよく覚えている。
昔、合唱サークルの新勧活動の際、入学手続きに来る新入生を捕まえるべく学舎の前でたむろっていた時の事であるが…

「…ねえねえ。
今来た人って、さっきも声かけた人だよね?」

「うーん、そんな気もするけど…あんまり覚えてないなあ」

「はいはい!間違いありません!
あの人はさっき声かけた人です!!」

「え。ぴこら、なんで覚えてんの?」


「だって。









脚の形が一緒でしたから!!」









それから、私はこの日一日変人扱いされることになったのだが
(まあ、それまでもそれからも多かれ少なかれ変人扱いはされていたが)
脚の形を覚えているってそんなにヘンなことなのだろうか。

急いで書き加えておくと、私は決して脚フェチだという訳ではない。
ただ、私自信異様に発達した脹脛を持ち、それが数多あるコンプの一つなので、余計に人様の脚を観察する癖があるのかもしれない。
#中学以降体育会系部活をしたことがないのに「陸上部だった?」と聞かれる脚なのであります。

勿論、人様に関して気になるのは脚だけではない。
服装、持っているもの、アクセサリー。
これらはものすごく観察しているしよく覚えている。
やはり、こういったものに際立って関心があるらしい。

故に、私は人様への関心がない訳では全くなく、寧ろありありなのだが、ではどうして首から上を見ようともせず覚えられないのか。
つらつら考えてみた結果、







それは私が極度のシャイガールだから☆






という結論に達した。

…ごめんなさいごめんなさい。
石投げないでください。
取り急ぎ、「ガール」の部分は引っ込めますんで許して下さい。
いや、でも、本当にシャイなんです。本当に。

では極度のシャイ故、初対面の人の顔がよく見られないから覚えないのかというとそれは違う。
寧ろ人様とサシの時、私はその方のお顔をガン見する方である。
それでいて何故覚えられないのかというと、初対面、またそれに準じる付き合いの短い方と話しているときは極度に緊張しているからなのである。

つ、次何話そう。
えーっと、こんなこと言っても大丈夫かな。
やばっ、今一瞬話題外した気がする。

対峙する人をくわっとガン見しつつ、私の頭の中は自分の発言に対する自己批判に自己反省、そして次なる対応方法の模索でいっぱいいっぱいなのだ。
故に、とてもじゃないがお顔を覚えている余裕なんぞないのである。

纏めると、
・私は人をこっそりつらつら観察するのは大好きである
・しかしひとたび対峙すると、うわーどうしよう何話そうqあwせdrftgyふじこlpとなり、結果顔が覚えられない
ということになる。

しかし改めてこうやって書いて整理してみると(整理になってないことは百も承知だが)、私は極度のシャイでもなんでもなく、つまりはただの陰湿なミザントロープじゃねえかということに気付かされた次第である。
でもまあ、もういいんですいいんです。
これで30ウン年生きてきたんだから。
これからも人の顔より脚を覚えるミザントロープとして生きていく所存であります。

…しかし、えーかげん件の税理士さんの顔は覚えなければなるまいて。
ちょっと反省。

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年代物、或いは骨董品。

先日の合唱団の演奏会のときの話やねんけど。

開演前、私は袖口で少し年上のお姉さんと立ち話をしていた。

「ぴこらさんぴこらさん。
私、今回やっとスカート新調したんよ」

「わあ、素敵じゃないですか。
ドレープもきれいに出てるし」

「今まですっごく安物の中途半端なもの穿いてたんだけどさ。
やっぱりちゃんとしたのを誂えようと思って…」

「うんうん」

そんな話をしていたところ、おばさま、いやそろそろおばあさまかと思われる年代のご婦人が割り込んでこられた。

「あのね、私のこのスカート、30年前のものなの」

「ええええーっ!本当ですか!
きれいな仕立てのスカートですねえ。
とてもそんな昔のスカートとは思えないです」

「それに、30年前のサイズのスカートが入るなんてすごいですね」

「ううん、まあ腰骨のところはきちきちなんだけどね」

「それでもすごいですよー」

褒め称えると、ご婦人はにっこり微笑んでこう仰った。

「あとね。







このスカート、30年間洗ったことないの」












はい。
告白します。

誠に申し訳ないことながら、












数歩後ずさりました














「いやー、黒いスカートって汚れが見えないでしょ?
だからついついずーっとね」

「…そうですか」

流石にこれには賞賛の言葉が思いつかなかった。

その後、私は灼熱の舞台に立ち歌い(その模様は前の記事をご覧あれ)、汗だくになったのだったが、今回は8月にも演奏会があるのでスカートを洗うのはその後でいっかー、と考えていた。

ところがどっこいすっちょんちょん。
ステージの模様を母に話したところ、

「え?汗だくになったのにスカート洗わないの?
よくそんなもの放っておけるわね。
貸してごらんなさい。洗っといてあげるから」

とスカートを奪われたのであった。

因みに我が家は神経質なまでに洗濯をする家である。
バスタオルもバスマットも当然毎日洗う。
パジャマも冬であれ夏であれ当然毎日洗う。
シーツは5日に1回洗う。
タオルケットだって1週間に1回は洗う。
洗うったら洗う。

そんな我が家の洗濯大臣、母に件のご婦人の話をしたところ、たっぷり1分は絶句していた。
人生いろいろ。
男もいろいろ。
女もいろいろ。
洗濯事情もいろいろ。
人によって価値観(といえば大袈裟だが)はいろいろなのはよく分かるが、やはり30年というのはうーんと考えてしまう。
でもま、いっそそこまで洗わなかったのであれば、今後ずっと初志貫徹(?)で洗わないでいてほしいもんだ、なんてことも思ったのであった。

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いつでも笑みを。

我が根後研究室の花形秘書は元CAのれんちゃん(仮名)である。
このブログにも再三書いているが、兎に角彼女は可愛いい。
可愛いだけでなく性格もよい。
性格がよいだけではなく頭もよい。
三拍子揃ったロイヤルストレートフラッシュのような女の子なのだ。
(ロイヤルストレートフラッシュには要素が足りないけれど、まあものの例えとして)

思えば1年と少し前、面接で彼女を採用することに決めた時、元院生の菊川さん(仮名)は少々難色を示していた。

「えー…今度の秘書さん、CAなんですかあ?やだなあ」

「何で?
てきぱきしてそうだしきっちりしてそうだし、何よりも可愛いよ」←一番重要なのはここ

「いやー、CAって可愛い顔してきつい子多いじゃないですか。
今度来る人もその類だったらやだなあと」

「うーん。
まだ面接でしか会ったことないけれど、彼女はそんな子じゃないと思うよ」

「…そうですか…」

「それに、万が一きつくっても大丈夫。












それくらい叩き潰すから」












「わー、流石ですねー」

とかいう物騒な会話をしていたりもしたのだが、上記のとおりれんちゃんは本当にいい子だったので、CA秘書を警戒していた菊川さんもすぐに打ち解け、めでたく彼女と仲良くなったのであった。

さて。

私は、れんちゃんと共に仕事をしていくうちに、彼女から非常に有益なことを学んだ。
それはなにあろう、

「誰に対しても、何に対しても笑顔で対応すること」

である。

彼女は本当にいつも笑顔が絶えない女の子だ。

おはようございますでにっこり。
ありがとうございますでにっこり。
ごめんなさいでにっこり。
お手数おかけしますでにっこり。

兎に角、何をしてもにっこりするのである。
これだけ書くとアホの子のようであるが、なかなかどうして、このにっこり戦略は対峙する相手に絶大な効力を発揮するのだ。

…いやいや。
にっこりパワーが功を奏するのはひとえにれんちゃんが可愛いからで、余人、特に私のような十人並みよりかなり落ちるオナゴが真似たからとて気持ち悪いだけなのではないか?

と思われる向きも多いだろう。
実際、私もそう思っていた。

しかしだ。
よくよく考えてみりゃ、十人並みとかそれ以下のオナゴ程笑顔で振舞うことが必要なのだ。
女子たるもの、容姿で勝負できねば残された道は愛嬌しかない。

また、顔の巧拙にかかわらず、笑顔の人に対してつっけんどんになったり怒ったりする人はまあいない。
同じ対応でも、ぶすっとされるかにこっとされるかで相手の心持も随分と違ってくるだろう。

という訳で、彼女のおかげで以上のような至極当たり前っちゃ当たり前のことに気づかされた次第である。
以後、私は人様に対し極力にこやかに接するように努めるようになった。
ささくれた気分の時でも、なんだか憂鬱な気分の時でも、はたまた二日酔いで頭が痛い時でも(これは自業自得)、嘘でもにこっとするとなんだか和やかな心持になるものである。

しかし。
なんといっても私はすみちゃんとは違い、まだまだ対人笑顔ビギナーなのでちょっと気を抜くと顔がこわばってしまう。
そんな私の理想の笑顔は、なんといってもこれである。





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そう、このゴールデンレトリバーの能天気笑顔である。
このお顔をみて怒る人がいようか。
いやいまい。
道は大変険しそうだが、この境地を目指して頑張る所存である。
#いや、これを目指すのであれば寧ろ頑張らないほうがいいような気もするが。

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誘惑。

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通勤途上にて。

うう、めくりたい。
めくりたいったら。
いや待てよ。
ひょっとしたらこれ所謂ツンデレというやつで、その意はどうぞおめくりなさいということなのではないだろうか。
となれば、私にはいっそめくらねばならぬ義務があるのではないか。

毎朝、このビニールシートの誘惑と戦っている私である。

#まあ、石垣が崩れているだけなんでしょうけれどもね。

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夢で逢い…たくないな。

※今日のお話は微妙にシモがかかっています。
ほんっとに微妙ですが、苦手な向きはお読みになられませぬよう。

最近、やたらと夢見が悪い。

とはいっても怖い夢の類ではない。
一言でいえば、何かしらいつも「間に合わない」のだ。

飛行機に間に合わない。
待ち合わせに間に合わない。
授業に間に合わない。
就業時刻に間に合わない。

それであたふたと急いでいるのに、そういう時に限って様々なトラブルが降ってきて対処に追われ、あーもーだめだー絶対間に合わないー!というところで目が覚めるのだ。

今朝方もまた、そんな夢を見た。
しかし今回のものは、並みいる「間に合わないシリーズ」の中でもなかなかファンキーなものだったので、是非この場でご紹介させて頂きたいと思う。
他人の見た夢の話ほどつまらないものはないとはいうけれど、ちょいとお目通し頂けたら望外の喜びである。

夢の舞台は大きく近代的な旅館。
私は所属する合唱団メンバーとこの旅館に宿泊していた。
出発は朝の9時半。
なのに、私はまた例によって例の諸処のトラブルに巻き込まれ(ここらへんの詳細は忘れてしまった)、気づくと時間は出発時刻直前の9時25分であった。

いかーん!
すぐに出なければ!

でも出発前にはやっぱりトイレに行かねば。
慌ててロビーに走りこみ、見まわせど何故かそれらしきものは見つからない。
ロビーにトイレがないなんて旅館なんてありえねー。
等とぶつぶつ呟きつつ、同じ階にあったレストランに走りこんだ。

「すみませーん。トイレありますか?」

「はいございます。此方ですよ」

ああよかった。
案内されたレジ横の個室に走りこみ、ふと見ると便座が随分高い場所に位置している。
ん?と思いつつ階段を上り(階段が付いている程高いのだ)、便座に辿り着くと…







なんか、レストラン中が見渡せるんですけど







要はこのトイレ、個室の壁のはるか上に設置されているのである。
つまりはレストランにいる人たちからは私の姿が丸見えになるのである。

な、なにこれ。

と狼狽する私の目に、トイレの壁に書かれた文字が飛び込んできた。
曰く、









「展望トイレ」









要らん。
トイレに展望は要らん。
というか、レストランが展望できて、だからどないやっちゅうねん。
それより寧ろ、これだったら展望「される」トイレではないのか。

等という突っ込みが頭の中を駆け巡ったが、突っ込んでいるのも時間の無駄だし、とてもじゃないけれどこんなところで用は足せないので、個室を出てレストランのお姉さんに他のトイレを教えて貰うことにした。

「あ、あのう…すみません。
このトイレはちょっと…あれなので、他のトイレ教えて頂けません?」

「あらー、やっぱり?」

#やっぱり?じゃねえよ。

「はい…お願いします」

「じゃあ、すごく落ち着けるきれいなトイレがありますよ。
ゆっくりできて、便秘もすぐに解消しますよ」

「い、いえ、便秘というわけではないのですが…
ではそこ、どこにあるか教えてください」










「予約されます?」










「は?」

「いえね、このトイレは予約制なんですよ」

「あの…お代はいかほどで…」

「ああ、お代は頂きませんよ」

「そ、それでは予約します!」

何が何だかさっぱり分からないが、なんせこちとら兎に角急いでいるのだ。
慌てて帳簿に名前を書き込んで、件のトイレに案内してもらうことにした。

そのトイレは、なるほどお勧めだけあって和の雰囲気漂う風流なトイレであった。
やれやれ、これで安心だ。
ほっとして個室に入り、ふと前を見ると、









ドアが格子戸状になってるんである






確かに和風、且つ風流である
でもこの格子戸、木と木との間隔が異常に広いのだ。
つまりは外から丸見えということである。

ぎゃー。
なんでここ、こんなんばっかりなの?
この旅館、露出狂の巣窟なの??

と混乱しつつ、しかし時間もないのでええいままよ、人の来る前に済ませてしまえばいいんだわと用を足そうとしたところ…


「ぴこらさーん」


「ぴこらさーん、どこー?
もう時間よー」


と合唱団の人達が大勢、私を探している声が聞こえてきた。

ぎゃー。
すみませんごめんなさい。
わかってます。
わかってますから。
すぐ行きますから。
だからお願い、探さないでー。

…というところで目が覚めた。

どうです、相当の夢見の悪さでしょう。

いつもならば夢のディテールはすぐに忘れてしまうのだが(覚えているのは兎に角「間に合わない」ことだけである)、今回はご覧のようにディテールが全くもってファンキーというかおバカだったので却って鮮烈に記憶していた次第である。
しかし、我ながら「展望トイレ」とか面白すぎるわ。
潜在意識にこういう概念とか欲望(これはやだ)があるんだろうか。

とまれ、以上夢話でした。
つまらないという他人の夢の話にもかかわりませず、ご静聴頂き誠にありがとうございました。
皆様におかれましても展望トイレには十分お気をつけ下さいまし。

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